TODOリストの先にあるもの。苛立ちやすい僕の断捨離とミニマリズム。
とにかく煩わされる。僕は最近、イラだちやすい。
たとえばコンビニ店員のちょっとした態度にも苛立つ。たとえば部屋が散らかっているだけで、ものすごく精神力が削がれる。
なぜなら「散らかったもの」は「僕が片付けなければいけないもの」として意識に認識されるからだ。
だからこそ最近僕は、意識的にミニマリズムを実践している。
もちろんミニマリズムで全ての苛立ちが解消されるわけではないが、自分がコントロール出来るものの筆頭が、自分の持ち物であり、ライフスタイルだからだ。
せめて自分にできることをしよう。苛立たずに済む生活環境を実現しよう。
世界の複雑さに目がくらむ
まず物事が複雑であること自体に、僕はだいたい苛立っている。だからこそ、その逃げ先としてミニマリズムが必要だ。これなしにはやっていられない。
単に格好良いからでもなく、役立つというレベルでもなく、僕にとってミニマリズムは、切実に必要なものと化した。
最近は、基本行動として断捨離を実行している。たまに思い出してモノを処分するのではなく、毎日何か処分するものはないか気にかけているような状態だ。
部屋のモノやスマホのアプリなど、アナログ・デジタルに関わらず。
よりシンプルに、よりストレスフルに。
捨てるからこそ新しいチャレンジが出来る
物事は新陳代謝だ。
部屋がモノでいっぱいなら、新しいモノを入れることは出来ない。もし無理に入れ続けてもいつか限界が来る。
これが習慣でも同じだ。いつの間にか不要になった習慣を続けていれば、エネルギーも時間も奪われて、新しい物事を試すことが出来ない。
大事なことは得ること自体でも捨てること自体でもなく、その交互の繰り返しで理想に近づくことだ。
いつでもエネルギーの黒字、赤字には目を光らせていたい。
たとえば僕は一時期楽しんだゲームがあるが、かなりのエネルギーが削がれていることに気がついた。それに対して得られる楽しさが見合わなくなっていった。
なので一旦ゲームはすっぱりと捨てて、今は他の物事にエネルギーを振り分けている。
もちろんゲームが悪いものだというわけではない。自分が楽しみたい期間、ゲームを楽しんだ。そして今は別の楽しみにチャレンジしている。
つまり習慣の新陳代謝。
ミニマリズムの目的は「邪魔されずに本質に集中できること」だ。
だがそもそも本質とは何なのだろう?
断捨離自体も楽しいが、その先に何もなければ虚しい
断捨離が終わり、TODOリストをこなし終えたあとに、何をすれば良いのかふと分からなくなることがある。
そもそも僕はどこに向かって進んでいたのだろうか?
何ひとつTODOがない。それならば、むしろ邪魔なものたちを片付けたいた楽しかった。些末なTODOを片付けていた時の方が面白かった。
その先には晴れ晴れとした世界が広がっているのだと思った。だけどそうではなかった。
本当にやりたいことがなければ断捨離も意味がない
物事が片付いた後に無を見つけるだけだ。
だけどそこが始まりなのかもしれない。その空白から自分を見つめ直せるかもしれない。
実際に僕は物事が片付いた後に、瞑想をしながら自分に生きる道を問いかけて、とりあえず一定の答えを得た。これは散らかった部屋や未整理のアプリに埋もれていては、たどり着けなかった場所だろう。
ところで、今は亡きおじいちゃんの部屋が
常識を遥かに超えるレベルで散らかっており、僕はそれを何週間かがかりで片付けたことがある。遺品整理も含めて。
この経験が、僕の今の「散らかり」への嫌悪につながっている気がする。