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わたしの『二十億光年の孤独』
#コルクラボbook倶楽部 で『二十億光年の孤独』の読書会をした。
詩を音読し、感じたことを話し、孤独という言葉から思う自分自身の体験を話し、そしてまた音読した。詩の文字と音とリズムを感じ、自由を感じ、ひとりだけど、ひとりではない、という感覚に包まれた時間だった。
感じたことを話した。読んでもわからないことも、こう感じたということも、ここおもしろい表現だと思う、ここのフレーズが好きだということも、いろんな話をした。
共感したり、違いを感じたり、笑いあったり、自由だった。
昔も今も、無意識に"答え"を探していたことを自覚した。
まわりと合わせること、先生の求めることに答えること。
”答え”となる言葉や、感じや、行為を探して、それを発して、どこか一緒であるという感覚を持ちたいと思っていたのかもしれない。
孤独から抜け出したくて、同じであろうとしているのだ。
だけど、孤独から抜け出したくてやっていることに、どこか虚しさを感じるときがあって、それがまた孤独なのだ。
読書会で、同じような感覚を話している人がいたから、安心した。
ぼくも感じたことを話せた。答えを探さなくても、感じたことを、そう感じたと言えることに、自由を感じた。
『二十億光年の孤独』で、最後、くしゃみをするところが好きだ。
オチではないと本人は言っているが、
宇宙規模まで広がる、ほかとの繋がりを求め、感じたいという思いが、「くしゃみ」という、一気に「わたし」という「個」にもどるこの瞬間が好きだ。
「わたし」が「わたし」を知覚して、「わたし」は「わたし」であると見つける瞬間だ。
その瞬間は、ポジティブな感情もネガティブな感情もない、ただ「たったひとり」の「わたし」になる。孤独は寂しいものでもなく、つらいものでもなく、スタート地点なのだと感じる。詩の最後に、はじまりがある。
たったひとりの自分が感じたことだったけど、参加した人たちと話をして安心した。
なにか縛られていたものから解放されたような自由を感じた。孤独から逃れたくてつながっていたのに、無理につながったら孤独だったんだ。
そのときの自由の感覚は、ひとりだけど、ひとりではない感覚があった。
「これは単細胞生物だね」と言うくらい、「わたしはひとりだよね」という事実がそこに存在するだけだった。
その存在が、はっきりしたとき、「わたし」は孤独になったけど、孤独には感じなかった。
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