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「猫様のクチバシ」第十三回 飛翔する心

長雨にすっかり疲れてしまった。
全く何も手につかない。
そこで久しぶりに一作を朗読した。
はじめからおわりまで読んだのだ。
それが「リトル・ターン」である。
聞き手はいつもと同じ飼い猫の三毛だ。
部屋の隅で眠そうにしながら、読み終わると起きておすわりをして、まるで労うような顔をする。
この三毛猫だけは、世界で唯一私の声が好きだ。

本はずいぶんと経年劣化していた。
そんな昔の話だろうかと確認したら、増刷された2002年に買ったようだ。22年前、私はまだ高校生である。
そうだ。私はその頃から映画の印象で五木寛之の作品が苦手だった。「大河の一滴」で三國蓮太郎さんが役柄で亡くなるシーンが印象的で、そこだけ記憶にこびりついている。話は全然覚えていない。それなのに、「大河の一滴」以来、苦手な作家になっている。

※以降、ネタバレ。

リトルターンをなぜ持っていたのか。引越しするたびに持ち続けていた気がする。前に読んだのがいつか覚えていないが、五木寛之さんが翻訳したこの物語はいつ読み返しても新鮮だ。

アジサシという鳥の性質上、飛んでいる時が鳥なのであって、空中こそが住まいだ。しかし、リトルターンはある日飛べなくなった。飛ぶためになくなった部品は"飛ぶための心"。そうなると、飛ばない鳥は鳥と呼べるのか、再び飛ぶために彼は考えざるを得なくなる。心の旅に出たのだ。

人間は何をもって人間か。
女は何をもって女か。
生き物は何をもって生きるのか。

その定義づけを考えた時に、失って困るものの大きさがわかるが、部品が一つ二つ欠けたとしてもそれでなくなるとも言えない。
アジサシは飛べなくなったが、羽を失ったわけではなかった。飛ぶ機能が消滅したわけではない。置き忘れたものを彼は探さねばならなかった。そのためになんでもかんでも集めてみたり、そのやり方が間違っていることをゴーストクラブに助言を受けたりした。

アジサシは友達が欲しかった。
ゴーストクラブが友達になってくれた。
しかし、ある日から会いに来てくれなくなり、待ち続けたアジサシは待つのをやめた。
そして、ゴーストクラブの助言をよくよく考えた。
飛べるようになったアジサシは、ゴーストクラブの姿を見つけた。

非常に興味深い本だ。
ただし、私は飛べなくなっても悩まない。
失えないものがある人は信念があるだろう。
私にはない。
いつどうなっても別にいいやと思う。
だから、私はこの物語の内容をすぐに忘れ、読み返すたびに新鮮な思いがするのだろう。

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