【読書感想文】「芙蓉の人」新田次郎
読書家だった祖父かあるいは母の蔵書シリーズ。読んでいない本がまだまだある。
「芙蓉の人」は、明治時代、気象学者の野中到が妻と挑戦した富士山頂の越冬観測について描かれた小説である。作者の新田次郎も気象学者だった。
彼が富士山冬季登頂を果たしたのは1895年。100年以上昔の話である。
この本の刊行は1971年だから、祖父でなく20代の頃とにかく読書していたらしい母の蔵書かもしれない。
富士山冬季気象観測の挑戦は幾度も文学になった
日清戦争終結の喜びに浸っていた日本は、富士山冬季初登頂という彼の偉業にほとんど注目しなかった。しかし、私費で観測所を建設し、さらに夫婦で命がけの越冬観測に臨むに至っては、新聞を賑わすニュースになったようだ。
12月になり、夫妻の体調が悪くなって助け出されることになった経緯は、その窮状を知った世論の突き上げもあっただろうか。
気象台は彼らを見捨てるのか?
しかし、実際には新聞紙面に夫婦が死に瀕していることが掲載されるまでには、12月に富士山に登って見舞い品と物資を届けに行った人たちが関係者に話を伝えた日と3日のタイムラグがあった。
世間が非難をしていた頃には、もう救助に向かっていたのだ。
現代にも、割合こういうことはありそうで、昔と今で情報が伝わるのが早いとか遅いとかはあまり関係がないのかなと思う。
他人の命が失われそうになると救助が遅いとか早いとかよく世間で議論になるが、助けようとする人たちは思い立った時には行動しているのである。
準備不足の気象観測
当時の気象観測機器では、冬山の気象を観測するのは難しかったようだ。10月に山に入り、11月には大事な観測機器がいくつか壊れてしまった。その時点で、一端山を下りて機器を調達すればよかったのではないかと思ってしまうが、海外製は当時手に入りがたく、そう簡単な話でもなかったようである。
小説を読む限り、この越冬観測にかける到さんの気概は並々ならぬものがあり、一端富士山に登ったら、冬が終わるまで降りないと決意していた。
過酷な挑戦と分かっていたから、降りたら心が折れるとか、周囲に戻ることを止められると思っていたのかもしれない。到さんは28歳、妻の千代子さんは4つ下だから、23歳か24歳の頃のことだ。二人とも若く一途だったのだろう。
しかし、読み手の私としては、登山の素人ながら準備不足としか思えない。まず、山小屋もとい観測所の食事がいかにも質素であった。食べ物は1月近く遅れて登った妻の千代子さんが、いろいろ考えて準備していたのであるが、結局山頂では気持ち悪くなってしまい、持っていった魚も肉の缶詰も食べなかった。小説の脚色でなく、これが事実なら恐ろしい話である。ただ、ベジタリアンとかそういうことではなく、自分たちが食べられそうなものばかり口にして早々に栄養不足に陥った。
体調が悪くなると、口にするのは豆の煮たのと葛湯だけ。千代子さんはその時代の女性の例に漏れず煮炊きが達者だったが、風邪を引いた夫に「豆の煮たのを食べたら元気になるはずなのに食べないから」と根性論なのかどうか、栄養を考えているのかいないのかよく分からない叱咤をするのである。
まだ体調が少し良かった頃も口にするのは野菜と砂糖ばかり。タンパク質不足だろうなと栄養学に詳しくない現代の私なら思ってしまう。
秋に登ったなら、果物を持っていって干してもよかった。末期になってほしがっていた蜜柑に似たビタミンを含んだ果物も秋なら当時としても手に入れられたのではないか。
どうも夫妻は気象観測の勉強ばかりして、医学とか栄養の方はそれほど学ばずに挑んだようだ。
到さんは気象台の役人として観測に臨んだが、富士山での冬の観測は自分の念願で食べ物の調達も私費だった。そのために親は先祖代々の土地まで売り払っている。
役人の名目で貸し出されたのは、気象観測の機器だけ。それも当初は1日12回到さんが一人で観測する予定だった。千代子さんが到着するまでは実際に一人で何もかもやっていたのだ。目覚まし時計はなく、懐中時計を頼りに時間を気にして過ごす日々。1日24時間だから、12回の観測なら2時間おきにやらなければならない。それも冬山で外の百葉箱でしなければならなかったのだ。トイレもなく、おまるをお湯で洗浄して、都度、外に捨てなければならなかった。
助け出された時は、到さんは動けなかったが、千代子さんは気丈であまり動けなくて観測所の中にたまっていた汚物を他人に手伝わせず、弱った体で自力で捨てたそうである。
登山に行く前に、士族の娘としてモンペは駄目とか男ものは駄目とか服装について母にいろいろ言われて身なりを整えて準備しただけあって、並々ならぬプライドの持ち主だ。
妻の千代子さんがいなければ、機器が壊れる前に到さんが壊れて命を落としていただろう。
それにしても、10月に登って春に下山ならほぼ半年の観測である。その間、たった一人で2時間おきに観測するなんて常人ができることではない。私は不眠症気味だから分かるが、人間は3日寝ないでもフラフラするし、10日も続けば限界を感じる。特殊な訓練を積んでも、半年はムチャだろうと思う。
明治の英傑、妻・千代子さん
千代子さんが主人公の小説である。作者の新田次郎さんのあとがきによると、下山の9か月後には富士山冬季観測は小説化されたが、その主人公は到さんだったようだ。その後もいくつかの小説になって人気の話だったが、あくまで到さん目線の話ばかりだった。
後年になって叙勲の話が出た時に、到さんは妻がいなければ続かなかったので、妻にも叙勲をと申し出たそうで、それが理由で話がなくなったらしい。失礼な話だと思ったのは作者も同様で、むしろこの観測に関しては千代子さんの力の方が大きかったとすら思っている。
小説の題名の「芙蓉の人」は、千代子さんが書いた日記「芙蓉日記」から取ってある。ほかの到さんが主人公の話は読んだことがないが、それでも、千代子さんを主人公にしなければと感じた作家の情熱を感じるこの作品以上のものではないだろうと思う。
元々夫婦はあらかじめ同意のうえで一緒に登ったのではない。周りが止めてもどうしても聞かずに、千代子さんがついて行ったのだ。気象観測の仕方も夫に教わったわけではなく、夫の気象学の蔵書を盗み読んで独学したのである。
夫に知られずに、周囲に話をつけて自力で訓練して学んで、夫の助けはなく、それどころか、夫を助けようと登っていった。自分も研究員として認めてくれと、気象台に手紙と入会金を送ったくらいだったから、気象学に対する自分自身の情熱もあったのかもしれない。小説の中で、夫の上司はフランス帰りなのに、あまりに封建的だと千代子さんは何度も嘆いている。二人は従兄弟同士。学問に対する情熱は似通ったものがあったのかもしれない。下山してから派家政は一切しなかった夫のため、家のことも全部やって5人の子どもを養うために金の算段もつけながら、さらに富士山冬季観測の再起のために長年夫に協力もしていたのであるから、とんでもない傑物である。それこそ、鉄人と言っていい。
しかし、その鉄人も第一次世界大戦中のインフルエンザの猛威によって52歳で命を落とした。山小屋の整備など長年準備してやっと夫と二人冬季観測の目途が立った矢先のことだった。全員が罹患して一人家族の看病に奔走し、家族が回復した頃に、命を落とされたそうだ。己の健康を過信していたわけがなかろうが、それほど怜悧な女性がやりたかった学問以外に献身しなければならなかった事実が悲しい。
疫病大流行の現代。100年以上経っても、それほど献身的な女性というのはこの2020年代の日本にまだまだいるのではないかという気がする。
登山シーズン到来
秋の行楽シーズンはもっとも登山が盛んな時期だろう。特に疫病流行のこの2年間に控えていた人も多かっただろうから、出かけられなかったこの2年の分張り切って登山に行く人がたくさんいると思われる。9月のシルバーウィークに10月のスポーツの日を含んだ三連休。11月は飛びの祝日で勤労感謝の日。9月は紅葉シーズンには早いが、熱さが和らいでまだ寒さも来ない。安心できる気候に油断して、事故が増えないことを願う。
登山する中で、山の植生を眺めるのも一つの楽しみだ。富士山は荒野だろうが、私の住む地元の山は冬に登山すると美しい樹氷が見られるらしい。怖いから冬でなくとも、秋でも上りたくはない。小説の中でも、山小屋の中にまで発生する霧氷の恐ろしさが描かれていた。火を焚いて毛布7枚かぶっても体が温まらないのだ。
今は、火の番や気象観測のために寝ずの番をしなくても、機械がいろいろ勝手にやっておいてくれるだろう。しかし、それも壊れたら終わりである。新しいものを下山して取りに行かなければならない。電波が届かなければ誰か来てくれないと連絡しようもない。結局、科学が進歩しても、解決しようもない問題というものはある。それは、人間の科学が入っていけない自然の領域というものかもしれない。