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回想散文1-7 家に大きなクモがいて入れない
率直に言って鍵っ子はわたしには向いていなかった。7歳のわたしは誰もいない家に帰るのがこわかった。
今はどうか分からないが当時のわたしは重度のマザコンで、母親自身も認めるほどのべったりぶりだった。
『あれは"執着"やったな』
母親に昔のことを聞くとそう言っていた。この発言にしてもそうだが、わたしは母を少しドライな人だと感じていて、子供ながらにその不安感から過度に寄っていってしまっていたのだと思う。つまり愛(というか愛情表現?)に飢えていたのだと思う。
小1のときは鍵っ子ではないのだが『お母さん』とわんわん泣いて泣き止まず担任を困らせたりもしていた。一度感情に火がつくと引っ込みがつかなくなる。泣き止まないわたしに困った担任が母親に連絡すると『放っておいて下さい。そのうち1人で落ち着くので。』
と返したと言っていた(やっぱりドライだと思う)。
わたしから言わせると、それは"落ち着いた"のではなく"諦め"だったんじゃないだろうか。どれほど泣こうがわめこうが結局自分は理解されないのだ、という絶望感というか虚無感というか。
感情を爆発させる以外の方法、"言葉"で気持ちを伝えることは昔から苦手だったみたいだ。そうしてわたしは母親を筆頭に、周りの人とのコミュニケーションのボタンを掛け違え続けていた。何度も"諦め"た結果、心を閉ざす方へとシフトしまいさらに感情表現が"苦手"になる、という悪循環に陥っていたのかもしれない。(今もだけど。昔よりはマシだ。)
誰もいない家には、人以外の何かがいるような気がしていた。巨大なクモがいるという妄想に囚われたこともあった。こわくてどうしても家に上がれず、玄関に座り込んだままその場で宿題をしていたりした。
マンションの下で母親が仕事を終えて帰ってくるまでずっと待ち続け、自転車に乗った母の姿が見えると大泣きして駆け寄ったような記憶もある。今でも覚えているくらいだから余程寂しかったのだろう。
契機はハムスター(プク太)を飼ってもらったことだった。プク太の様子見たさに家にすっとあがれるようになった。
プク太には本当に感謝している。
(つづく)