ベクトル空間の定義
大学数学を学ぶ上で避けて通れないのは,線型代数のなかでもベクトル空間であろう.「その定義は何か?」と聞かれて,皆さんはどう答えるだろう.たとえば,
「和とスカラー倍とが定義されていて,いくつかの条件を満たすもの…」
と答える人もいるだろう.一方,代数を少し勉強すると,次のように答えることができることが分かる.
これだけの説明で,初学者にベクトル空間を教えられたとは全く思わないが,実はこの説明は正しい.そこで,どのようにこの説明がなされるのかを解説することにしたい.
代数の復習
$${G}$$を集合とする.写像$${\bullet : G\times G\to G}$$を$${G}$$上の二項演算という.これから,組$${(G, \bullet)}$$に条件を次々に課すことにする.
半群・モノイド
$${(G, \bullet)}$$が半群であるとは,以下を満たすことである.
$$
\forall x, y, z\in G, (x\bullet y)\bullet z=x\bullet(y\bullet z).
$$
これを結合律という.
半群の例は,$${(\mathbb{N}, +)}$$である.但し,$${\mathbb{N}}$$は正の整数全体の集合とする.
$${(G, \bullet)}$$がモノイドであるとは,$${(G, \bullet)}$$が半群で,以下を満たすことである.
$$
\exists e\in G \,\text{s.t.}\, \forall x\in G, x\bullet e=x=e\bullet x.
$$
$${e}$$を$${(G, \bullet)}$$の単位元という.
モノイドの単位元は1つしかないことが分かる.
モノイドの例は,$${(\mathbb{N}\cup \{0\}, +)}$$である.
群
$${(G, \bullet)}$$が群であるとは,$${(G, \bullet)}$$がモノイドで,$${e}$$を$${(G, \bullet)}$$単位元とするとき,以下を満たすことである.
$$
\forall x\in G, \exists y\in G \,\text{s.t.}\, x\bullet y=e=y\bullet x.
$$
$${y}$$を$${x}$$の逆元という.
各元の逆元は1つしかないことが分かる.
群の例は,$${n}$$次対称群である.
$${(G, \bullet)}$$がAbel群(可換群)であるとは,$${(G, \bullet)}$$が群で,以下を満たすことである.
$$
\forall x, y\in G, x\bullet y=y\bullet x
$$
これを交換律という.
Abel群の例は,$${(\mathbb{R}\setminus \{0\}, \times)}$$である.
環
$${R}$$を集合とし,$${+, \cdot}$$を$${R}$$上の二項演算とする.
$${(R, +, \cdot)}$$が環であるとは,$${(R, +)}$$がAbel群で,$${(R, \cdot)}$$がモノイドで,以下を満たすことである.
$$
\forall a, b, c\in R, a\cdot(b+c)=a\cdot b+a\cdot c,\\\hspace{1.9cm}(a+b)\cdot c=a\cdot c+b\cdot c.
$$
それぞれ左分配律,右分配律という.$${(R, \cdot)}$$の単位元と区別するために,$${(R, +)}$$の単位元を零元という.
環の例は,$${n}$$次実正方行列全体の集合と行列の和,積の組である.
$${(R, +, \cdot)}$$が可換環であるとは,$${(R, \cdot)}$$が交換律を満たす,すなわち以下を満たすことである.
$$
\forall x, y\in G, x\cdot y=y\cdot x
$$
可換環の例は,$${(\mathbb{Z}, +, \times)}$$である.
体
$${(F, +, \cdot)}$$が体であるとは,$${(F, +, \cdot)}$$が可換環であり,$${e\in F}$$を$${(F, \cdot)}$$の単位元とするとき,以下を満たすことである.
$$
\forall x\in F\setminus \{0\}, \exists y\in F \,\text{s.t.}\, x\cdot y=e=y\cdot x
$$
体の例は,$${(\mathbb{R}, +, \times), (\mathbb{C}, +, \cdot)}$$である.但し,$${\cdot}$$は複素数の積とする.
加群
左加群・右加群
$${(R, +, \cdot)}$$を環とする.$${(M, \bm{+}, \bm{s})}$$が$${(R, +, \cdot)}$$上の左加群であるとは,$${(M, \bm{+})}$$がAbel群で,$${\bm{s} : R\times M\to M}$$が写像で,以下を満たすものである.
$${\forall r\in R, x, y\in M, \bm{s}(r, x\bm{+}y)=\bm{s}(r, x)\bm{+}\bm{s}(r, y).}$$
$${\forall r, s\in R, x\in M, \bm{s}(r+s, x)=\bm{s}(r, x)\bm{+}\bm{s}(s, x).}$$
$${\forall r, s\in R, x\in M, \bm{s}(r\cdot s, x)=\bm{s}(r, \bm{s}(s, x)).}$$
$${e\in R}$$を$${(R, \cdot)}$$の単位元とする.$${\forall x\in M, \bm{s}(e, x)=x.}$$
右加群も同様に定義されます.
$${(R, +, \cdot)}$$を環とする.$${(M, \bm{+}, \bm{s})}$$が$${(R, +, \cdot)}$$上の右加群であるとは,$${(M, \bm{+})}$$がAbel群で,$${\bm{s} : M\times R\to M}$$が写像で,以下を満たすものである.
$${\forall r\in R, x, y\in M, \bm{s}(x\bm{+}y, r)=\bm{s}(x, r)\bm{+}\bm{s}(y, r).}$$
$${\forall r, s\in R, x\in M, \bm{s}(x, r+s)=\bm{s}(x, r)\bm{+}\bm{s}(x, s).}$$
$${\forall r, s\in R, x\in M, \bm{s}(x, r\cdot s)=\bm{s}(\bm{s}(x, r), s).}$$
$${e\in R}$$を$${(R, \cdot)}$$の単位元とする.$${\forall x\in M, \bm{s}(x, e)=x.}$$
作用$${\bm{s}}$$をスカラー倍という.
例
$${M_{m, n}(\mathbb{R})}$$で$${m\times n}$$サイズの実行列全体の集合を表す.$${+, \cdot}$$をそれぞれ行列の和,積と定めると,$${(M_{m}(\mathbb{R}), +, \cdot)}$$は環となるのであった.$${\bm{+}, \bm{s}}$$をそれぞれ行列の和,左から$${m}$$次実行列を掛けるものと定めると,$${(M_{m, n}(\mathbb{R}), \bm{+}, \bm{s})}$$は左加群となる.
一方で,右加群とはならない.実際,スカラー倍$${\bm{s}}$$を,$${r\in M_{m}(\R), x\in M_{m, n}}$$に対し,$${\bm{s}(x, r):=rx}$$で定めると,右加群の条件3.を満たさない.例えば,$${m=2, n=1}$$の場合,
$$
r:=\begin{pmatrix}1 & 2\\ 2& 1\end{pmatrix}, s:=\begin{pmatrix}0 & -1\\ 1& 1\end{pmatrix} \in M_{2}(\R), x:=\begin{pmatrix}1\\0\end{pmatrix}\in M_{2, 1}(\R), r\cdot s=\begin{pmatrix}2 & 1\\1 & -1\end{pmatrix}
$$
$$
\bm{s}(x, r\cdot s)=\begin{pmatrix}2\\1\end{pmatrix}, \bm{s}(x, r)=\begin{pmatrix}1\\0\end{pmatrix}, \bm{s}(\bm{s}(x, r), s)=\begin{pmatrix}-2\\3\end{pmatrix}
$$
となる.
可換環上の加群
上記の例では,右加群のスカラー倍を,左加群のスカラー倍を用いて定義した.$${M_{2}(\R)}$$は可換環ではないため,上のような反例を作ることができた.一方,可換環$${(\R, +, \cdot)}$$上の左加群$${(M, \bm{+}, \bm{s})}$$は自然に右加群にもなる.$${\sigma : M\times R\to M}$$を,$${r\in R, x\in M}$$に対し,$${\sigma(x, r):=\bm{s}(r, x)}$$と定めると,$${(M, +, \sigma)}$$は$${(R, \cdot, +)}$$上の右加群となる.実際,右加群の条件1., 2.,4.が成り立つことは明らかであり,条件3.は,
$$
\sigma(\sigma(x, r), s)=\bm{s}(s, \bm{s}(r, x))=\bm{s}(s\cdot r, x)=\bm{s}(r\cdot s, x)=\sigma(x, r\cdot s)
$$
と計算することができる.(3番目の等号に可換環の交換律を用いた.)
そこで,可換環上の左加群のことを,単に加群ということにする.
ベクトル空間の定義
今まで述べたことから
代数の復習から,順番に,半群,モノイド,群,Abel群,環,可換環,体,加群が定義された.これらの内,体と加群との概念を用いると,ベクトル空間を,短い言葉で定義することができる.体は可換環となることに注意する.
$${(F, +, \cdot)}$$を体とする.$${(V, +, \bm{s})}$$が$${(F, +, \cdot)}$$上のベクトル空間(線形空間,線型空間)であるとは,$${(V, +, \bm{s})}$$が$${(F, +, \cdot)}$$上の加群となることである.
従来の定義との比較
大学の授業の最初で習う定義を復習しておこう.
$${(V, \bm{+}, \bm{s})}$$が$${(F, +, \cdot)}$$上のベクトル空間であるとは,$${+}$$が$${V}$$上の演算で,$${\cdot : F\times V\to V}$$が写像で,以下を満たすことである.
$${\forall x, y, z\in V, x\bm{+}(y\bm{+}z)=(x\bm{+}y)\bm{+}z.}$$
$${\exists o\in V \,\text{s.t.}\, \forall x\in V, x\bm{+}o=x=o\bm{+}x.}$$
$${\forall x\in V, \exists y\in V \,\text{s.t.}\, x\bm{+}y=o=y\bm{+}x.}$$
$${\forall x, y\in V, x\bm{+}y=y\bm{+}x.}$$
$${\forall x, y\in V, a\in F, \bm{s}(a, x\bm{+}y)=\bm{s}(a, x)\bm{+}\bm{s}(a, y).}$$
$${\forall x\in V, a, b\in F, \bm{s}(a+b, x)=\bm{s}(a, x)\bm{+}\bm{s}(b, x).}$$
$${\forall x\in V, a, b\in F, \bm{s}(ab, x)=\bm{s}(a, \bm{s}(b, x)).}$$
$${e}$$を$${(F, \cdot)}$$の単位元とする.$${\forall x\in V, \bm{s}(e, x)=x.}$$
我々が今まで整理した用語との対応を見ると次のようになる.
条件1.を満たせば,$${(V, \bm{+})}$$は半群となる.
条件1.,2.を満たせば,$${(V, \bm{+})}$$はモノイドとなる.
条件1.,2.,3.を満たせば,$${(V, \bm{+})}$$は群となる.
条件1.,2.,3.,4.を満たせば,$${(V, \bm{+})}$$はAbel群となる.
条件1.,2.,3.,4.,5.,6.,7.,8.を満たせば,$${(V, \bm{+}, \bm{s})}$$は$${(F, +, \cdot)}$$上の左加群,すなわち$${(F, +, \cdot)}$$上の加群となる.
まとめ
ここまでで,ベクトル空間の定義を,加群の言葉を使い説明することができることを解説した.
初学者に対して,上記の方法と同じようにしてベクトル空間を定義して学ぶのは,あまりおすすめしない.一方,少しでも代数をかじったことがある人に対しおすすめするのは,少しだけ抽象化するだけで,ベクトル空間をきちんと説明することができるし,8つある条件がどのようなものかが整理され,覚えやすくなる利点があるからだ.
誤植などあればご指摘くださると幸いです.
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