悪から救われるために悪を救う

昨夜、多崎つくる(以下略)の考察を読みながら眠りに落ちた。自分は考えもしなかった考察が展開されており、目から鱗が落ちた。なんとなく引っかかっていた違和感の、点と点が結びついていった。衝撃を受けた。ゾッとした。気味の悪さを覚えた。

特に心を抉ったのは、シロに関する考察。詳細は割愛するが、彼女の人生が自分の人生と重なり、封印していた記憶、過去の心的外傷が生々しく蘇った。理不尽な悪に蹂躙された怒りと憎しみと、大きな悲しみがぐちゃぐちゃに混じった感情。自分を守る術を持たなかったときの、繊細で傷つきやすかった自分を、彼女に重ねて思い出した。

過去のトラウマは、時が癒してくれると思っていた。記憶が上塗りされれば、忘れられると。実際、沢山の幸せな記憶で覆われて過去のトラウマは朧げになっていて、自分は過去を克服できたのだと思っていた。しかしそうではなかった。それはただ何層もの記憶が上に重ねられていただけだった。そのずっと下の方で、奥の方で、過去の私は傷ついたまま置いてけぼりにされていた。私はその過去から目を逸らしていただけだったのかもしれない。過去は変えられない。

過去の自分を救うために、何かを書きたいと思った。できれば、小説。憎しみを抱いたまま生きていくのは辛い。憎しみから自分を救うために、自分を憎しみから解放するために、創作によって復讐をしたい。小説を完成させたことはないし書きたいと思ったこともあまりないが、はじめて明確に小説として書きたいものができた。

ただし復讐と言っても、「悪を懲らしめる」わけではない。「悪を救う」のだ。自分を救うために、憎い悪を救うのだ。赦すのともまた違う。赦してはならないし、赦すつもりはない。憎き悪が救われなければ、私自身もほんとうに救われることはない。私が憎む悪もまた、別の悪によって加害された被害者であるからだ。

憎しみと悪の連鎖を断たねばならない。でなければ私もまた、きっと憎しみから誰かを加害し、新たな悪を生むだろう。

過去や歴史は変えられない。しかし、その解釈を変えることはできる。

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