「無理ゲー社会」 橘玲 「能力主義も運のうち」 マイケルサンデル の要約と感想

橘玲の無理ゲー社会という本について要約と感想を述べる。要約といってもきちんと本を要約するつもりもないが、感想と書くと要約ではないのかと思われそうなので、このように書いた。ほかの人の考えや、捻じ曲げた解釈も多いが、あまり気にせずに読んでほしい。要約として正確性は全くないが、この文章単体で読み物として成立するように記す。

能力主義は正義か?


まずは、能力主義は正義であるかというテーマから始めよう。このテーマはマイケルサンデルが最近出版した本でも扱われているが、特に議論もせずにさっさと答えを述べてしまおう。能力主義が正義であるかというと、単純にそうとは言えない。なぜかというと、そもそも能力というものは、才能と努力からなるものでそのどちらもが多くを遺伝によって決定づけられているからである。では、別の問いの立て方をすると、能力主義がなぜ正義とみなれてきたのかというと、従来の人種差別や性差別などの生まれ持った特性に基づく差別を超えて社会的な位置づけを獲得できるチャンスが得られるものであったからだ。その際、能力主義を肯定するフレーズとして努力をすれば何でもなれるというようなことがうたわれるようになったが、いま、そのようなことを本当に信じられる人はいないだろう。能力主義の前提である、努力こそが社会的成功の要因であるという大前提が崩れた今、能力主義の恩恵を受けている社会的成功者(エリート)はそれが運であることを自覚し謙虚でなければならない。(「能力主義も運のうち」 マイケルサンデル)

ここまでは、マイケルサンデルと橘玲の共通部分である。これに対してどうしてもしたくなってしまう反論があるので、述べておく。この反論という問題提起が次の橘玲の続きの話につながる。まず、ここでの社会的成功は金である。能力主義は功利主義的(全体の利益につながること)であり社会の生産を最大化する社会構造である。要求すべきことはみんな最終的に同じ、結果の平等を求めるのではなく、最底辺の向上ではないか。功利主義的な能力主義とスタート地点の平等(機会均等)と結果のある程度の再分配があれば最もうまくいくシステムではないかと考えてしまう。(だから、サンデルは謙虚であれとまでしか言っていないので反論にはあまりなってはいないといえばいないww)つまり、ものすごく具体的に言うと資本主義と相続税100%と累進課税が現状のベストではないかという話になる。

経済格差から評判格差、評価経済社会へ

しかし、それにより皆が幸せに暮らせる社会になるかといえばそうではない。物質的に豊かになったのち次に困窮し格差を生じるものは性愛である。このことを橘玲は「評判格差社会」といった。(岡田斗司夫はもっと前に評価経済社会と言っていた :「ぼくたちの洗脳社会」という本による)資本主義における経済的格差は将来的には機械が働くことや再配分の仕組みなどにより解決すると仮定してしまおう。そもそも、この仮定を認める根拠として、貨幣は再分配可能であるということがある。しかし、こののち生じる評判格差、評価経済社会においては評判、評価は再分配不可能であることが格差を深刻化させると考えられるのである。

 ここまで、自分なりの解釈を含めて言い換えると、格差には経済格差、評判格差、性愛格差がある。それらは相互に関係していて、性愛格差は経済格差と現代社会においてはかなり強い相関がある。お金持ちはモテルという当たり前の事実がある。つまり、お金はものを食べていくためのものという以上の価値がありそれは性愛格差に直結しているからこそお金にこれほどまでに価値がある。さらにいうと、モテルというのは同性においてもステータスとなり社会的地位にも相関する。また、評判格差は明らかに性愛格差と経済格差に相互にプラスのフィードバックをする関係になっている。

 具体的に、経済格差が解決されるシナリオにおいて性愛や評判においてどのような形で格差が拡大されるかシミュレーションしてみる。UBI(ユニバーサルベーシックインカム:みんな一律でお金が国から支払われる仕組み)によって経済的な問題が解決したとしよう。事実上お金というものの価値が失墜したとき、人はパートナーをどのように選ぶかという話である。それは当然魅力的な相手である。現状成立している一夫一妻制は資本主義的なシステムに基づいて成立しているわけで(一夫一妻制の起源 を参照)、相手が自分を養えるかどうかを気にしないということになったとき事実上、一夫一妻制は成立しなくなり性愛の格差が生じるのである。

男女の恋愛格差の構造についてはまた、つづく


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