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代替不可能な人間関係とは

代替不可能な存在はマーケットにおいて希少性がある人間とは質的にことなる。
プロテスタンティズムと資本主義の精神によると、キリスト教の宗教改革から登場した予定説では資本の蓄積が神に救われることの確認になるとし、資本主義が生じたとかんがえられている。
資本主義社会においては、代替可能なクズ(宮台真司)が量産されることになる。クズというのは法の奴隷、損得マシーン、言葉の自動機械である。
このクズはすなはち条件プログラムによって行動するがゆえに代替可能である。具体的には、損得によって物事を考えるので給料をあげれば変わりがいくらでもいるサラリーマンのような状態ともいえる。資本主義社会として競争原理が成立するためにはこのように個々の存在が代替可能であることは必須条件である。
 個人が条件プログラム(法、損得、言葉)に従って行動するということは物理において、すべての物体が因果律に従っている中で人間もがそれに従っていることを意味する。因果関係というのは計算可能性であり、代替可能性である。それに対し因果律にあらがうのは人間の自由意志である。自由意志は条件プログラムではない。言い換えると因果の起点を自分の中に持つことだ。つまり、無条件に発動する格率をもつ必要性があり、同時にそれは普遍的に妥当なもの(道徳的)でないといけない。(カント)いいかえると、条件プログラムでない意思決定は価値基準・行動基準を正義や道徳や(広義の)愛に据えることである。これらは、無条件に〇〇すべきという定言命法であって、〇〇だから〇〇すべきという仮言命法であってはならない。(カント)これは、自らを因果の起点とすることと同義である。
広義の愛というのは人間が仲間として結びつける人たちに対して抱く特別な感情で、その対象はおおよそ最大150人だといわれる。これは、狩猟採集の時代のなごりであり、実際に顔や名前を知っている関係性である。それ以上の人数ではホモサピエンスは虚構によって結びつく。(サピエンス全史)そのスケールにおいては代替可能な存在になることも致し方ない。しかしながら、150人の仲間に対しては上記の代替不可能な存在である必要がある。
それは、上記自由意志を尊重考え方はシステムではなく仲間を頼り、自由意志を尊重する主意主義的立場をとるからである。その逆としては主知主義で、これはシステムがよくなれば社会がよくなると考える思想である。主意主義者は、これに対してシステムの改善は依存性を高めるばかりで人の孤立を深め、鉄の檻に閉じ込めると考える。これらの人々が先述したクズとなる。
この結論は人間の感情を原因論ではなく目的論的にとらえるべき(嫌われる勇気)と考えることに整合する。つまり人間は自由意志の存在を肯定し因果に寄って行動は決定されるのではなく、人間が目的をもって感情を発生させる。それを自覚することを通じて自らの自由意志による行動が可能になっていくという思想となる。

具体例 (おまけ)
 上記の話では伝わりにくいと思うので、具体例として走れメロスをあげておく。(あらすじはググってください。)メロスは人間不信になって人々を虐殺しているという王を暗殺しようとしてとらえられる。この時のメロスの行動原理は損得でも法でも言葉でもなく意思の格率である。つまり、無条件に苦しんでいる人、ここでは殺されてしまうであろう一般大衆を助けなければならないという道徳律に突き動かされて、行動を起こした。また、セリヌンティウスも自らを人質として引き受けるがこのときもまた、利他性に基づいた行動である。この二人は途中一時相手を裏切りそうになるものの、利他性と道徳律に突き動かされて行動するので互いに代替不可能な関係になっている。それに対して王は利他性と道徳律に乏しく代替可能な存在にとどまっていることがわかる。また、この話から得られるもう一つの教訓は利他的、道徳的な存在は周りを感化し利他的、道徳的な存在に導くということである。このために王様は二人の仲間に入れてほしいと懇願することになった。

まとめ
深くて長期的な関係性には利他的であることが必要であり、利己的な存在は代替可能である。


疑問点
意思の格率を定めることが無条件に動作する因果の起点となるとしても、意思の格率を定めること自体が何かに触発されているのでは、それは因果のもとにあるのではないだろうか?
 別の言い方をすると、損得勘定から代替不可能になりたい人間に損得を捨てろというのはなかなか難しい。

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