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まずい!と言ってはいけないこととbeing tactful

先日、ネットで

子供がご飯を「まずい」ではなく、他の言葉で表現するよう促している

というニュースを見ました。

確かに、短絡的に「まずい!おいしくない!キライ!」と言うより、「ちょっと苦手」「ちょっと口に合わない」などと言えた方がいいですよね。

ただ…

ご飯に対して『まずい』と言うのを厳しく叱ってる。

というのを読んで、胃のあたりがギューッと苦しくなりました。

人に不快な思いをさせたり、傷つけないように、tactfulであることと、まずい!とつい言ってしまう(思ってしまう)気持ち・反応は別ものだと思うからです。

tactful = careful not to say or do anything that could upset someone  
(人を傷つけたり、怒らせないよう、婉曲表現を使ったり、注意深い言動をすること)

ふと出てしまった「まずい」「おいしくない」に厳しく叱られると、自分の感じた「まずい」「おいしくない」という感情は、

持ったらいけないもの
・怒られるもの

としてインプットされてしまうと思います。

以前、SNSで

親のしつけのおかげで、今でも好き嫌いなく、何でも残さず食べられます!親に感謝♡

みたいな投稿を見かけたのですが…

私の両親も、好き嫌いしないよう、何でも食べれるようにと、がんばってしつけてくれましたが、私は食べられないものもあるし、完食できない(しない)こともあります。

数年前、初めて胃カメラをして、なぜ一度にたくさん食べられなかったり、苦手なものがあるのか理由が判明しました。そういう体質的なものもあるので、しつけが良い悪いの話じゃない、無理やり食べてこなくてよかったんだ…とホッとしました…。

だからこそ、

「お米はお百姓さんが一生懸命作ったものだから、残したらバチが当たる」と育てられたから、どんなにお腹いっぱいでも、お米は一粒も残しません!
お米を一粒でも残したら叱ります!
お米やご飯を残す人はありえない!

などといった発言も、私はとても重ーい気持ちになってしまいます。

食べ物を大切にするのは大前提として、「もう食べられない」という自分の生理的欲求よりも

お米を残してはいけない!
お百姓さんが悲しむ!
バチがあたる!
一粒残さず食べるべき!

という他人の基準を優先したり、実体のないものを使って罪悪感を植え付けるような発想や言葉がとても苦手です…。

先ほどの例では、「まずい」と口に出さなかったとしても、
お米の例では、無理やり食べたとしても…

心の中では「まずい」と思ってしまった気持ちや、
「もう食べられない」と感じたことに対して後ろめたさを感じてしまうと思うのです。

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