小さな花を集めていく
夏も本番に差し掛かった7月末、どうしても花を育ててみたくなった。しかし、真夏に種をまいて育つ花はそれほど多くないらしい。あれこれ調べた結果、ケイトウという植物に白羽の矢を立てた。耐暑性が高く、初心者でも育てやすいとのこと。種をネットで取り寄せ、早速プランターにまいた。
自分で花を育てるのは、生まれてはじめてだった。密集してしまった芽をおそるおそる間引いたり、葉っぱに白い斑点が出てきたときにはもうダメだ、と絶望したり。
あとは毎朝水やりをして、たまに肥料をあげるだけで、草丈がぐんぐん伸び、2ヶ月ほどで花が開いた。鶏頭の名のとおり、トサカのようにフサフサした花。ピンク、オレンジ、黄色の3色が、目にも鮮やかだった。
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同じ育てるにしても、子育てはずいぶん違う。ケイトウは種から花までたったの2ヶ月だったが、人間の子どもは中学校を卒業するにも15年。日に日に草丈が伸びて、目に見えるつぼみが花開いたケイトウとは違って、人間の内面の成長はそう簡単にみえてこない。
わたしの息子は2歳。彼がどんな人間に成長していくのかは、まだまだ未知数だ。ただ、これまでの2年間だけでいえば、彼はかなり慎重で臆病なタイプだった。1歳のころの彼は、場所見知りも人見知りもひどく、外に連れていってもあまり楽しめているようにはみえなかった。
近所の子育て支援施設に、たびたび連れていった。保育園に預ける前に、少しでも家以外の環境に慣れてほしくて。
はじめのうちは、部屋に入るだけで泣いた。数ヶ月すると泣かなくなったものの、リラックスして活発に遊ぶというのには程遠かった。大抵はわたしの膝の上に大儀そうに横たわり、眉間にしわを寄せて、ほかの子をひたすら観察していた。スタッフさんが声をかけると、8割ぐらいの確率で泣いた。オモチャの救急車がサイレンを鳴らすのをみて、怖がって泣いた。同じぐらいの月齢の子が小さなすべり台を勢いよく滑ってくるのをみて、また泣いた。
この子は、コミュニケーションがとりわけ苦手なのかもしれない。知能の発達に問題があるのかもしれない。
物おじせず、愛想のいい子をみかけるたび、不安や劣等感が胸をよぎった。息子のペースを待つだけだとわかっていても、ひたすら観察モードをつづける我が子がもどかしかった。
とはいえ、花を育てるのと同じぐらい、子育てにおいてもできることは限られている。水やりをして、日光にあててあげるのと同じように、衣食住の環境を整える。肥料をあげるのと同じように、遊びや日常の関わりのなかで、愛情を示していく。そうやって、時間を積み重ねるしかない。
2歳を迎えるころ、急に様子が変わってきた。ある日、いつもの支援施設で、息子が同い年の男の子と追いかけっこをはじめた。どちらからともなく。言葉らしい言葉もないままに。小さなすべり台のまわりをぐるぐる回って、2人とも声をあげて笑っている。回れば回るほど楽しくなるようで、追いかけっこは10分以上もつづいた。
息子がほかの子と遊ぶ姿をみるのは、これがはじめてだった。何ヶ月も何ヶ月もわたしの膝から動かないで、難しい顔をして、観察ばかりしていた彼が、ひとつの小さな花を咲かせた瞬間だった。
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育てるとは、待つことだ。
環境を整え、必要と思うものを提供しながら、相手のなかで伸びゆく何かを、ひたすら信じて待つことだ。
どうしたって、不安になる。
ケイトウの葉に白い斑点が浮かんだだけで取り乱したわたしのこと、息子に十分なものを提供できているのか、この2年間心配しどおしだった。ほかの子や育児書の内容と比べることが無意味だとわかっていても、どうしてもやめられなかった。
だから、これからは花を集めたい。
友達と楽しそうに遊ぶ姿を突然みせてくれた、あの日の驚きと喜び。
そういう類の記憶を、胸にとどめたい。
どんなに小さなものでもいい。ほかの誰とも違う息子の成長の証、変化の軌跡に気づきたい。
彼のなかで伸びゆくものが確かにあるのだと、振り返ることができたなら。
小さくもこんなに愛おしい花が、すでに咲いているのだと思い出すことができたなら。
漠然とした不安に心を曇らせることなく、彼その人の成長を待ちつづける勇気になると思うのだ。