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役割を果たせない悲しみの先に

悲しみが胸を覆っている。
どうってことがあったわけじゃない。
でもこの感情は、たしかに「悲しい」だと思う。

たとえば、会社に在宅勤務を打診することを考えていたとき。
たとえば、息子よりも月齢の小さな子が、彼のしない指差しをしたり、靴を履いて歩いているのをみたとき。
たとえば、市の子育て支援施設で出会った人とうまく話せなかったとき。

自分に期待されているだろう役割を十分に果たせないことが、悲しくなる。会社員、母、妻、隣人として、関わる人にどう思われているのか不安が募る。役割を満足に果たせていないと、「ここにいてもいい」と安心できないのだ。

ふと思い立って、理想像をつなぎあわせてみる。
母・妻としてのわたしは、余裕をもって笑顔で家族に接し、家事や息子の保育園の準備などをそつなくこなす。
会社員としてのわたしは、他部門との懸け橋の役目を果たしながら、フルタイムで残業していたころと同じぐらいのお金を稼いでいる。
息子の付き添いとしてのわたしは、彼のことを目にかけてもらえるように、関わる人みんなと深いつながりを築いている。

……なにがなんでも、無謀だ。わたしひとりで抱え込める量をとうに超えている。

考え方を変えなければと思う一方で、このやり方しか知らなかったのだと気づく。学生時代のわたしにとって、安心感を得る唯一の方法は、「親が自分に期待しているだろう役割を十分に果たすこと」だった。

学業でいい成績を修め、忘れ物をしない優等生であること。
母の気軽な話し相手であること。

その2つさえ満たしていれば、安心できた。自分には価値があり、ここにいてもいいと思えた。

社会人になって、妻になって、母になった。役割が増えると同時に求められる成果も多様になった。すべてを満たそうとしたら人間の限界を超えてしまうほどに。それで、わたしは悲しいのだ。これといって何もないのに、悲しさがこみあげてくるのだ。ただ、安心したいのに、決してできないルールを抱え込んでいるから。

「そろそろ、許そうか」
役割を果たせない自分を。そもそもその役割だって、誰かに命じられたものではなく、空気を読んで勝手に抱え込んだもの。相手のニーズを満たせていない気がして、自分の言動のすべてが間違いのような気がして、ふさぎこんでいるけれど、正解など最初から存在しない。自分を厳しく罰しているのは、自分の意識でしかない。


あれ、それに何か忘れている気がする。こうして文章を書いているわたし。空を眺めてぼーっとするわたし。寝たり食べたりするわたし。――そう、役割とは関係ないところに「ただのわたし」がいるじゃないか。

そこに集中していると、ぼんやりとした悲しみは束の間消えていた。そっか、安心感って「ただのわたし」とつながっても得られるんだ。

学生時代はまだ、余力があった。自分に期待されているだろう役割を十分に果たしてもなお、ひとりこっそり「ただのわたし」を謳歌する隙間があった。でも役割の増えた今、そうはいかない。なにせ役割を果たそうとするだけで100%を超えているのだ。

わたしの願いは、安心して暮らすこと。「役割を果たす」ことに固執してきたのは、その願いのつよさゆえ。だからこそ、この方法がもう破綻してしまっていることを受け入れなければならない。そして今度は、「ただのわたし」を中心に据える番。わたしの心地よさで重みづけをして、日々の暮らし方を選ぶ。役割にも優先順位をつける。そのための道筋が、今ひらかれつつある。

「わたし」を役割で取り合うのではなく、「わたし」が役割を選んでいくということ。
「ただのわたし」とつながることに、軸足を置いていくということ。

ぬぐってもぬぐってもこみあげてくる、理由のわからない悲しみ。それが気づかせたのは、「役割を果たすわたし」と「ただのわたし」の主導権を真逆にする新たな可能性だった。



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