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春の匂いに思うこと

エッセイは通過点であって、ゴールではないんだ。
本当にやりたいことは……まだ、言えない。一歩も踏み出せていないし、進んでいくうちにやっぱり違った、となるかもしれないから。

そういうわけで、1週間ほど何も書かなかった。
noteからもTwitterからも急に姿を消して、心配をかけた方には申し訳ないかぎり。

最近、「避けては通れない道」の存在をつよく意識するようになった。それは、エッセイを書くことではないと確信した瞬間、更新をつづける意欲が一気にしぼんでしまった。

一方でわたしは、「避けては通れない道」への入り方がまだわからない。手始めの勉強もしようと思うだけで、いまのところ全くの手つかず。それで先に、欲求不満になった。「書きたい」と思う心が暴れだして、泣きたくさえなった。どうやら、いまのわたしにはエッセイにせよなんにせよ、表現手段が必要らしい。



最近のわたしはと言えば、あいかわらず、出汁をひくことにハマっている。にぼし出汁を使ったほうれん草のお浸しは、我ながらいい出来だった。味噌汁に溶きいれる味噌の量も、自分好みの加減がわかってきた。だしがらの昆布とにぼしは、生姜と一緒に佃煮にするとおいしい。そもそも生姜を刻むだけで、その香りに癒される。ぎこちない手つきで包丁を動かしながら、すぅっと香りを吸い込む。

匂いを感じることを、おざなりにしてきたなぁと思う。いや、いつだって感じてはいた。今日、外に出たときの匂いは、あたたかさに空気のゆるむ春のものだった。それが瞬時にわかるぐらい、毎年毎年、感じてきた。

だけど、味わおうとはしなかった。あえて吸い込むことなんて、決してしなかった。春の匂いは、新しい環境の寄る辺のなさを思い出させるから。係を決めて、班を決めて、クラスメイトと少しずつ会話を交わして居場所をつくっていく時間は、いつだって不安でむずむずするものだった。


トレンチコートを着て、ベビーカーを押しながら、陽射しにあたためられた空気を吸い込む。はく息と一緒に、この季節に抱く印象をそっと手放す。

春になれば、いまは枝だけになって寂しそうな木々も、青々とした葉を取り戻すだろう。桜が咲いて、その白さに幻をみているような気持ちになるだろう。黄や赤や青の色とりどりの花が、あちこちを彩るだろう。

たくさんの変化があるだろう。学校や職場が変わる人。ともに過ごすメンバーが変わる人。立場が変わる人。家族の変化に立ち会う人。

抱く感情は、人それぞれだろう。わくわくしている人。緊張している人。不安に押しつぶされそうな人。いつもどおりの人。

匂いを味わうことを避けてきたのは、自分の抱く「過去の春」への感情で、打ちのめされるのが怖かったから。春の匂いそのものに、そんな魔力は潜んでいない。ふわりと鼻をかすめた匂いから連想して、不安や憂鬱を思い出して、勝手につらくなっていただけ。

日に日に空気が春めく今日この頃。いまはただ、それをそのまま受け取りたい。かつての自分の感情で、現実を塗りつぶさないようにして。

春の陽気が心地よかったのか、気づいたら息子はベビーカーのなかですーすー寝息を立てていた。彼にとってこの空気は、お昼寝日和以外の何物でもないだろう。それぐらいシンプルに、この季節を暮らしたい。



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深水 ゆきの
最後まで読んでくださってありがとうございます! 自分を、子どもを、関わってくださる方を、大切にする在り方とそのための試行錯誤をひとつひとつ言葉にしていきます。