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【感想】石川善助『亜寒帯』へ
石川善助の詩集『亜寒帯』を開くとき、私の心は能動的に漂流を始める。
今、私の眼前に、朝焼けに燃やされる真っ赤な海が広がっている。その海面には、真っ白な鯨の骨が剥き出しで不動のまま伸び上がっている。
私は海に裸足で入ってゆく。そして鯨の骨に触れてみた。すると、この星の原始の記憶が掌から体内へと流れ込み、顔を上げれば真っ赤な大波が、目の前に迫っていた。
波にのみ込まれた私の身体は、極寒の海へと沈みゆく。
海底に沈みながら、激しい波のうねりを全身に受けている時、白い泡が海面を目指して昇ってゆくのを見送る。この厳しい海は、かつて石川善助を抱いた海である。
時に、詩に於いては、書かれた文字の並びの美しさは勿論のことであるが同時に口から発せられる〈音〉の美しさも重要である。それは、一節の調和の為に、音楽的意義が成すことである。
そして、この意義は詩の書かれた時代の反映である。
『亜寒帯』の「北太平洋詩篇」より「オコツク海通過」が顕著である為、引用する。
「オコツク海通過」
肌を舐め、むづがゆく匍匐する、
船室に夥しく汚点する、
勘察加(カムカッサ)の夏から腐蝕から移り
旋回し、受精し、孵卵する蝿。
(水温を求めて流浪する魚群
群がり啼いて魚を追ふ水禽の飛翔)
脈翅はオコツクの風に透き
蝿は人の感官を触れ、
冷えゆく体温に懶く騒ぐ、
生物らの古い悲しい記憶を呼ぶ、
氷河、氷河……
この染み入るような凍えには、現代発音の〈オホーツク〉、〈カムカッチャ〉では足りない。この詩が出来た時代の発音である、〈O・KO・TU・KU〉及び、〈KA・MU・KA・S・SA〉という音こそ、この詩における「氷河」を、より強くイメージさせるのである。即ち〈K〉という音の果たす役割が、善助の生きた時代の〈冷たさ〉を時を超えても色濃く伝えてくれるのである。
『亜寒帯』における〈労働〉についても見ていこう。凍てつく寒さの中で行われる労働には、厳しい環境に置かれる労働者の憫然たる姿は善助の目には映っていなかったように感じる。
彼の詩においては圧倒的自然に向かう人間の生命力を強く描いている。あかぎれする労働者の手には、哀愁と同時に、太陽すら掴みそうな程の生命力を感じずにはいられなかった。
命とは、我々の眼前に存在し、燃え盛る〈真実〉である。善助はそうした生命という〈真実〉を労働に見出したのではないだろうか。
つまり〈労働〉とは人間を摩耗させるだけではなく、研磨するものでもあるということだ。
善助の詩人の魂は、海上での労働を見つめて来たことで研磨され、より多くの光を反射出来るようになった。その光は彼の感性にありありと現実を照らしてゆく。眩い心象世界は、彼の精神力があってこそ、見詰めることが出来るのであり、結晶化した感性の投影こそ、善助の芸術ではないかと思うのである。
しかし、同時に抱えきれぬ程の熱情を彼は持て余すことになる。強固な精神力を持っていても、彼には癒えぬ苦しみがある。
そうして、苦しい胸のうちは、原始の海へと沈んでゆく。万物の原初、即ち母という観念に抱かれて、ようやく彼は涙を流すことが出来る。放出されること無く、浮世を彷徨う彼の肉体を持て余しながら。
善助の詩の世界にて、私は真っ赤な海から這い出る。それから、深いブルーの海へ、船に乗り、出航した。今は、流氷を眺めている。巨大な流氷は、インディゴブルーの海水を氷の腹に映して、目の前が暗転しそうな程の人知の及ばぬ白色を放っている。
これは、人間の魂の色だ。
善人も悪人も皆、この魂を持って生まれて来るのだ。現世を生きるには、あまりにも眩しく、耐えきれず自ら閉ざす魂の色だ。
聖人と呼ばれる人間は、この白色を静観出来る者のことではないのだろうか。
この漂流旅行の果てに石川善助は居た。
海は夕焼けの空を反射し、波は穏やかである。
鯨は浜辺に横たわり、善助は静かに傍に居る。天幕に彗星が落ちてゆくのを見送る頃、鯨は白骨化していた。彼は、ゆっくりと真っ白な鯨の骨に触れた。
鯨の骨は一人の詩人に宇宙の記憶を与える。
それは、天から降る周波数に共鳴する魂を持った詩人への愛であった。
◯参考文献
石川善助『亜寒帯』(あるきみ屋 -Memento Mori-、令和六年発刊)