その振鈴、乱れず
春陽堂の名著復刻版「滝口入道」。水野年方によるきわめて美しい挿絵装丁は一生の宝物になった。
悲話であるにもかかわらず、擬古文の美文調は優婉耽美、流麗軽妙にて、文華白銀の名調子にすぐにも乗っていける。
今ではほとんど顧みられることのない著者、高山樗牛。東京帝大在学時に読売新聞に応募した生前唯一の小説。平家没落に伴走する滝口と横笛の悲恋は、二枚舌に七変化、二心三心八方美人の現代人をして生き方を問うている気がしてならない。
しかし横笛(なんと優しい名前だろう!)の哀話に感動するのは、それがやがて死に至るからではなく、滝口に一目会いたいばかりに山里離れた嵯峨野の奥に一人、夜をさまよい滝口を訪ねる件。それと知っていながら鉄の意志で退けた滝口が、一意専心、振鈴をまったく乱れず濁らず鳴らし続けたこの響きのうちにある。
想いを寄せる人の来訪を顧みず、ひたすら鈴を振り挑ぐ。ときは平安末期末代、鄙びた山の廃れた寺での忍び逢い。
そしてこの響きを横笛がはっきりと聞いたことに、もうひとつの感動がある。それは横笛にとって、おそらく私たちの耳と違って不協和音だったに違いない。その死までやむことなく未練の鐘として鳴り響いていたはずだ。
一糸乱れぬ鈴の音は永劫不変に見えながら、ともすれば見落としてしまう、ひとつの諸行無常の響きだったのである。
もう二度と「ない」と思った人に、いつまでも未練がましい自分には、なんとも清潔で神聖に聞こえてくるけれども、のちに高野聖となった滝口の決然とした在り方と、横笛の一途傷心の悲しみは、名文の彫琢として現代の読み手に刻まれることだろうと、揺れては逸れ反れては漂う私はそう思う。
「のう、滝口殿。」