知音亡きあと琴を一刀両断する兼秋
知音: 親友、心の通じ合った友(「明鏡国語辞典」)
豊原家は代々朝廷に仕官する音楽楽人の名家、後醍醐帝に仕えた豊原兼秋もまた笙の妙音名手、あるとき兼秋が天皇の遣いとして四国讃岐に下り、折しも八月の十五夜に誘われ、海辺に寄せた船上で琴を弾いていると、なにやら岸辺で聞き入る若い木こりがある。人里知れぬ辺鄙な木こりなどに琴の音など分かるまいと兼秋はあしらうが、実にこの木こり、かの八幡太郎義家から琴を伝授されたこれまた堪能上手の家柄の出、しかし世情騒然の乱代、代々の琴は次第に理解されなくなり、いまや身を落とした零落のなれの姿であった。人は見かけによらぬとすっかり感服した兼秋は音楽談義に熱を上げ、来年のこの十五夜の日、この場で必ずや再会しましょう、琴を弾いてお待ちしていると約束し、義兄弟の契りを交わし、京に帰っていく。しかし別れてからほどなくこの木こりが亡くなったことを一年後に知った兼秋は、琴の音を理解してくれる人はもはや誰もいまいと一刀両断、秘伝の琴を真っ二つに斬ってしまった。
これは「英草紙、豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話」からだが、知音とはここから来ていると書かれている。実際には中国春秋の古典からだそうだが、なるほど、「音を知る人」とは芸術家にとってなくてはならぬよき理解者である。さもなくば木こり然り兼秋然り、音楽は広まらず衰退してしまう。よって、心をよく理解してくれる人、それほどの親しい間柄という意があるわけだ。
しかしそうした芸術家ではなくとも一般に人生のなかで、知音なる人はそう多くはいない。自分に正直になるならば片手で余るぐらいだろう。さらには年齢を重ねるにつれそれらの「音信」は途絶えがちになり、人知れず孤独の道をひとり下っていくのかもしれない。
その後、京に戻った兼秋だったが、足利尊氏らとの南北朝の乱が始まると再び讃岐を訪れ、そこでついに出家したとある。以来、自らも子供も木こりさながら田夫として余生を送った。やがて吉野に南朝を開いた後醍醐帝、四国は南朝に味方するものが多かったこともあり、兼秋は最後の知音である帝のもとにしばしばお忍びで参上しては、笙と琴の雅音の調べを聴かせたという。