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した した した。


近代文学の金字塔、折口信夫おりくちしのぶの「死者の書」を再読していた。讒言ざんげん奸計によって自刃に追い込まれ、古墳に葬られた大津皇子おおつのみこの鎮魂のために、藤原南家の姫が曼荼羅を織る、伝説と虚構が交錯した壮大夢幻の物語である。

その冒頭、皇子が眠りから目を覚ます場面はこう始まる。

した した した。

凍りつく真っ黒い夜の中に、水の垂れるこの音で目が覚めていく。

した した した。

なんとも冷んやりした、震えるような美しい響き、しかしこんな音と言葉はどうやっても出てこない。頭を振り落としても、逆立ちしても出てきやしない。そうして、この「した した した」が常にどこかに響いているような心持で読んでいくうちに、すっかり寝落ちしてしまった。容赦なく大雨を落とした台風はいつのまに去って行った。

明け方の夜明け前、あまり寝付けないまま、私はふいに目を覚ました。

した した した。

台風一過の晴れ予報だったはずだが名残惜しいのか、外は小雨が降っている。その細い雨針が軒を伝って、手摺を静かに打つ音が聞えた。

した した した。

これは、人間の頭の中などにはない、自然が奏でては運んでくる音だ。

した した した。

私はこの心地よい静かな目覚めで、ちょっと大津皇子になったような気がした。しばし微睡みから起き上がってカーテンをあけると、白い空に柔らかい陽が射しこもうとしていた。



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