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一葉作品が残していくもの


一葉の死後に寄せた追想のなかで、幸田文こうだあやは「一葉作品には、なんというか季節の感じを皮膚に覚える」と記している。また、一葉の早世にショックを受け、以来何年も作品を読むことができなかったという長谷川時雨しぐれは「ふきにほひとあの苦み」と評している。

日本近代文学の傑作とも名作とも金字塔とも言うのは簡単だが、しかし何度も読むに、一葉の小説は言葉にならない何かを(読むたびに)すーっと残していく。私もこれが不思議だった。破滅に向かう女の愁訴や哀切が染み入って、ひしひしと胸に迫るだけではない何かがずっと残るのである。

維新後の文明開化により、西洋から自由を輸入しては急速に近代化した日本には、旧幕の制度や風習が名残をとどめていた。公民権なき市井の女性は忘れ去られ、「男女七歳にして席を同じゅうせず」、男権社会の底辺を生きることを余儀なくされた人が多かったが、そうした時代背景をもってしても一葉が残していく「何か」は分からなかった。幸田の言う「肌身の季感」とも時雨の言う「蕗の青さ」とも違うものを私は感じていた。

小説の師でもあり、恋の相手でもあった半井桃水なからいとうすいと絶交したのちの日記にはこんな件がある。

「人をも忘れ我をもわすれ、うさも恋しさもわすれぬる後に、猶何物ともしれず残りたるこそ、此世のほかの此世成らめ。」(原文ママ)

相手のことも自分のことも忘れ、そしてつらさも恋しさも忘れはてたあとに、言い知れぬ何かが残る。これこそこの世のほかのこの世。

私は実人生のなかでこうした体験をひとつもしたことがないが、しかし一葉が残していく何ものかは、この世ならぬこの世を目指して、ひとりの女性である他ならぬ作家が親と生活のために命を削った、目には閉ざされた心意気だったのではあるまいか。

誠に我れは女なりけるものを、何事の思ひありとてそはなすべきことかは。




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