別れの「暁月夜」
その別れは春の暁の月だけが見ていた。
華族名家のうら若き令嬢、その容顔美麗に惹かれた青年文士は学業も何も捨て、名を変えては一転庭男と身をなりすまし、令嬢の邸に忍び込む。一方は高嶺の花、これは麓の塵、しかし嵐は平等に吹くというもの。一葉女史はそうして恋の行方を物語る。
令嬢を慕ういとけなき弟君を仲介して、男は艶書恋文を送り続けるが、しかし一向に返事はない。身分違わば恋の襷も掛け違うのか、優婉麗筆な一葉の筆は連綿体の草書のように男の恋を書き走る。
ある夜、音沙汰なきまま令嬢は訳ありげに別荘鎌倉への遁世をひとり決心する。恋破れたかにみえた男はいきおい最後とばかり令嬢の寝室を訪うが、令嬢の口の端から洩れたのは驚くべき出生の秘密であった。
「恋は浅ましきもの果敢なきもの憎くきもの。免るせよ。」
令嬢のこの言葉は、師・桃水への想いが砕けた一葉のまったき恋愛観ではなかったか。
その後の令嬢の行方も、男の消息も分からぬまま小説は不意に終わる。ただただ春の有明の空に挑ぐ月だけがこれを見守り、読後の余韻に響くは軒端に戦ぐ風鈴のリロリロ寂しき音色。
樋口一葉の作品のなかでも大好きな一篇「暁月夜」、こんな自分にも恋焦がれる想いの人がかつていて、それでも身を引かねばならなかったことをふと思い重ねる。それは秋の終わりの木枯らしの季節だったが、眠れぬまま一人で見上げた暁天には月がほとんど消えかかって、そんなことは誰知らず、なんとも白々しく夜が明けようとしていた。