わたしの経験した熊本地震#14
2016年の4月14日、震度6の地震にわたしは自分に何が起きたのかわからなかった。
一昨日、深夜0時16分に震度3の地震があった。
感覚的には震度5くらいの揺れに感じたのは、おそらく夜であったことと、わたしが熊本地震の本震を夜中に経験しているからだと思う。
9月は防災月間。気を引き締めるために、わたしの経験した熊本地震のことについて書こうと思う。
聞いたことのないような地鳴り
その日は地元の宮崎から帰ってきた日だった。
宮崎へは友人に会うために一人で運転して帰り、恩師にも久しぶりに会えたり、普段あまり行かないような母校や神社に遊びに行ったりしていた。
熊本の自宅に帰宅すると夫はまだ帰っておらず、帰ってきたと思ったら「喉が痛い」と言う。わりと喉の弱い人なのだ。
そんなことは知らないので、作っておいたカレーを出すと「喉が痛いのに〜」と言いながらもご飯を食べていた。
なぜこんなしょうもない話を覚えているのかというと、この数時間後に地震が起きて家の中はめちゃくちゃな状態になる。
もちろんキッチンも食器類は割れ、物は散乱して破茶滅茶な状態だったが、カレーを作っていたことでご飯を作る手間が省けたのだ。
まだこの段階では断水はしてなかったので、次の日も片付けをしつつカレーを食べていたんだと思う。
わたしはお風呂に入って今日一日の出来事を思い返していた。
宮崎では久しぶりに父と出かけて、地元の有名な神社へお参りに行っていた。わりと有名な名所なのにわたしは一度も行ったことがなく、そこで父とあれこれ話した。
その時点で結婚して6年経つのに、わたしに子供ができないので「まあできなかったらそれはそれでいいよ」という話をしていたと思う。
そんなことを思い返して「さあ出ようかな」と立ち上がろうとしたら、「ドン!」と今まで聞いたことないような音がした。
その瞬間、浴室のドアがバタバタと動き、シャンプー類のボトルも倒れ、ものすごい揺れがわたしを襲った。浴槽のお湯が波打ち洗面所が水浸しになっている。立っていられない。
キッチンでは食器が割れる音がしている。
とにかく浴槽から出て夫の名前を呼んだ。呼んで1階まで降りてこられるとは思わなかったが、それしかできなかった。
ちなみに奇しくも夫は2階のトイレに行っており半裸状態、妻は全裸である。
今思えばかなり笑えるが、実際は服を身に纏ってない時の地震って相当焦る。
大きな揺れは収まったものの、まだ地鳴りや揺れが続いており不安だった。
まさに今まで経験したことのないような揺れ。
携帯電話には家族や知人から多くの連絡が入っており、中でも同じ熊本市内に住む友人は県外の出身なので心細いから我が家に行きたい、と言うので来てもらった。
もう一人は4月に熊本大学に入学したばかりのわたしの従兄弟が、まだ友人もおらず頼るところがないからと我が家に避難してきた。
友人は怖がってはいたが彼氏がいたので、とりあえず彼氏の住むマンションへ行くことになり、大学生の従兄弟は我が家でしばらく預かることになった。
次の日はもしかしたら緊急時に備えるためお店は人が多いかもしれない、と懸念していたがそうでもなかった。
もちろんお店の方々も陳列を直したり床には商品が散らばったりはしていたが、いつも通りの風景。
「昨日の地震凄かったねー!」という雰囲気。
ちなみに恥ずかしい話だが、防災グッズは何も用意していなかった。あったのは懐中電灯くらいなもので、非常食もナシ、水ももちろん備蓄していなかった。
「日刊住まい」で詳しく書いているので、ぜひ読んでいただきたい。
心配性な性格なのにわたしは防災グッズも用意していなかったことを悔やみながらも、念のため車のガソリンを満タンにして帰った方が良い気がして、ガソリンスタンドに立ち寄って帰宅した。
夜中に起きた本震の揺れ
14日の地震が大きかっただけに、さすがに2階の寝室に寝るのはすぐに避難できなさそうだと1階で就寝することに。
枕元には懐中電灯と避難用のリュック。リュックには最低限のものしか入ってない。
夫はというとかなり楽観的な性格なので、「心配しすぎじゃ?」といった顔でわたしを見ていたけれど、備あれば憂いナシだろ!と諭して寝た。
ちなみにこの男、このあとの震度6強の地震と断水、停電、車中泊のストレスが溜まって顔面に帯状疱疹ができる。
16日未明、震度6強の地震が発生。
14日とは比較にならないほどの揺れで、すぐに停電になった。さすがに命の危険を感じる。半泣きだったが気丈に振る舞えたのは、従兄弟がいたからだ。
隣の部屋で寝ていた従兄弟の名前を呼んで、夫と3人で家の外に出た。電柱は見たことがないほどユラユラと揺れているし、隣のおばさんは取り乱している。
これだけ揺れたら家が倒壊するのでは、と思うほど大きい地震が続いたので取り乱すのは無理もない。わたしも家は諦めなければいけないかもしれない、と思っていた。
このままでは危ない、と感じたので近くの中学校へ車で避難。
車で移動するのが最善だったかはわからないが、まだ4月で寒かったのと、歩いて行くには遠かった。
結果的に、避難所には人が溢れていて車の中で過ごすことになったので良かったのだと思う。
大きな爪痕を残した熊本地震
一夜明けて家に帰ると、本棚は壊れ、書斎の電子ピアノも倒れてるしiMacは液晶画面が損傷、作曲用の機材も壊れており、1階のピアノや薪ストーブは位置がずれるほど移動していた。
それからしばらくして断水した。電気の復旧は早かった。
しかし断水しているとトイレは使えない。避難所のトイレは凄まじく汚い状態になっており、衛生上使いたくはなかった。
お風呂やペットボトルに貯めていた水を流して使うほかなかった。
ちなみに、このあと夜は空き地で車中泊をする生活が5日ほど続く。
熊本市内の道は相当な渋滞だった。もうまったく動かない。特に北上する(植木IC方面等)が多かったように思う。
6km先に行くまで通常20分もかからないところが、往復で6時間かかったほどだ。
給水所にも行こうとしたが渋滞で断念。ガソリンスタンドにも列ができており、ガソリンだけは満タンにしていて良かったと安堵した。
地震から1ヶ月ほどして、熊本市街に近い場所を散策してことがある。
特に熊本城の被害は大きかったので、写真を撮ってまわった。熊本県民でないわたしでも、シンボルである熊本城の痛々しい姿には涙がでた。
あそこの温泉は営業再開したらしいよ、という話を聞いて行ってみると長蛇の列だった。お風呂が入れなかったのはツラかったし衛生上も心配で、1週間後に車で50分ほどの荒尾市まで行った。
蛇口をひねるとザバーっとお湯が出てきたことに、感動した覚えがある。
今回この記事を書くついでに写真を見返すと、4月に地震が起きて5月・6月にはお店も通常通り営業しているようだった。
「災害は忘れた頃にやってくる」
今は防災グッズも5年前よりしっかりと備えているとはいえ、子供もいるしコロナのなか備えるものも変わってくる。というか時代の変化とともに、防災グッズも見直していく必要がある。
地震の経験は確かに恐怖ではあったが、トラウマはなかったと思っていた。
しかし一昨日の夜中の地震は、相当な恐怖だった。地鳴りと震度3とはいえ瞬間的な激しい揺れに、咄嗟に隣に眠る2歳の次男の手を握った。
実際、熊本県民は災害に関して過敏になっている。コロナでもトイレットペーパーや日用品がスーパーの棚から消え、去年の台風前日にはホームセンターは人でごった返しになっていたところもあった。
地震の記憶も新しく、しようがないことであるし、わたしも過敏になっている一人だ。
何かが起きてから動くのは、難しい。
物は手に入らなし、世の中はパニック状態になっている。
今できる備えをする、考える、続ける。
それが自分や家族を守る防災の一歩だと、わたしは思っている。