語り口が違えば、違う物語になる。
最近、noteを読むことが楽しい。
「読む」と「書く」を行ったり来たりすると、どちらも豊かになっていく。
読む時間は、だいたい寝る少し前。お風呂に入ったあと、部屋全体の照明は消して間接照明だけに。暗すぎず、明るすぎず、ちょうどいい感じの明るさになる。
あたたかい飲み物を準備して、いろんな方のページを開いていく。
部屋が暗い中でスマホ見るのは良くないかな…とも思ったけれど、この環境で読むと、とても集中できる。そして意外と眠りにも差し支えない。
昼間に読むよりも、じっくり読める。じっくり読めるから、コメントもしやすい。
それが喜んでもらえるかどうかは人それぞれだけど、何か感じたら飲み込まずできる限り伝えたいなと、最近は思っている。
フォローしている方々だけではなく、ときどきおすすめにとんだりもする。そこにはいろいろなテーマの記事が並ぶ。自分にとっては関心のなかったテーマの記事も。
思いきってクリックしてみると、意外とおもしろかったりする。
同じ文章は一つもない。だから読んで感じることもさまざま。
「おもしろい」もあれば「うわ、すごいがんばってる…!」と刺激を受けることや「なるほどな…」と考えさせられたり、「わかるわかる」と共感することもある。
何か情報を得ることよりも、「その人はどういう切り取り方をしているのか」という点に、興味がある。
同じ方の記事をいくつか読んでいると、不思議なことに何となくの像が浮かんでくる。会ったことがなくても。文章にはその人らしさがにじみ出る。その人らしさは、その人にしか持ち得ない。
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最近読んでいる本で、タイトル通り撃たれた箇所がある。
物語は、すべて語られてしまった。
いまさら、なにを語るのか。
いま、ものを書く意味はなにか。
人に話し、心を動かすことができ、また自分も救われる。
そんなことが仮にも期待できるとすれば、それは、ナラティブの力を信じているからだ。
ナラティブに、救われた経験が、あるからだ。
物語は有限である。
しかし、ナラティブは無限だ。
ものを書く者の、それが救いだ。
本書では「ナラティブ」は「語り口」と定義されている。
仮に同じ物語を体験したとしても、それをどう人に語るのかは千差万別、無限にあるということ。
たしかに救いだ、と思った。
「私が言わなくても、すでに誰かが言っている」
そう思って、書くことにブレーキがかかったこと、またはかかりそうになったことはないだろうか。
私はある。
他の人も言っている、みんなが知っていることを私が書く意味って何だろうか。書いても意味ないんじゃないだろうか、と。
そんなことはない。意味はちゃんとあった。
だって語り口は無限なのだから。
目から鱗が飛び出るような大発見を書く必要はなく(そもそもそんな発見にはなかなか出会えない)、自分の言葉で語ればいいのだ。
自分の言葉で、物事をどう切り取ったのか、どこに光を当てたのかを、表現する。
それは時に、人の心を動かすものにもなり得る。
noteで出会う文章は、「語り口はさまざま」ということを、まさに実感させてくれる。だから読んでいておもしろいと感じるのだ。
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私は、自分なりの語り口を見つけられているだろうか。もちろん、私が書いている時点でこの文章は私にしか書けないのだけど、言葉選び、表現はもっともっと考えて、工夫できる気がする。
どこかから借りてきた言葉ではなく、自分の言葉で語れるようになりたい。
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