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SNSを騒がせている小学校四年生の国語教材 「ごんぎつね」の感想文について
「ごんぎつね 感想文」でXを検索すると出ますが,三月二日ごろまでに話題になったニュースです。
ごんぎつねの感想文で、兵十が火縄銃でごんを撃ったあと「ある子は感想文の中で,もっと栗やきのこがもらえたのに残念だった。」というな感想を書いて、先生からもっとしっかり読んで書きなさいという指摘があったという採点の仕方について,賛否両論が起こったというか、炎上?というより議論だったように把握しています。
結論ははっきりしてるんです。 まず大前提に「この感想文は、国語の授業中に評価の対象として行われ,国語の成績に反映されるということ」をがまず考えられます。
文脈に沿って,その行間を読むのと,想像力を働かせて感想を書くのは別物です。 文脈を読んで,作者の言いたいこと、つまり「主題」に沿った感想書くのが本来の感想文であって,自分勝手な想像力を働かせることは? いくら感想文であっても筋道から外れています。
おそらくこの子は。 文章全体をきちんと読んでいなくて,作者の言いたいことを 読み取っていないということがはっきりとしているのです。
よく国語の授業の後の研究会でも、子どもの書いた作文を,あるいは、感想文を取り上げることがありますが。 どんな一流の古典的文学作品からライトノベルまでに至る文章でも,作者の伝えたいこと,主題についての文脈をきちんと読んでいないと,とんでもない方向へ解釈して勘違いしてしまうことがあります。
これが自由作文であって、評価の対象にならないのであれば話は別です。しかしながら,自分で想像して創作活動するのではないので,この場合、国語の授業としてやってる以上は、やはり作者の文脈に沿った主題、つまり伝えたいことに沿った感想を書くべきです。
ごんぎつねの主題は,擬人化されてはいますが。「ごんの最期まで,お互いに分かり合えない,気持ちのすれ違いの悲しさ」を描いた作品であり,ここを読み取れないことには「ごんぎつね」いう作品を読んだということにはなりません。
読書感想文コンクールは,夏休みの課題図書を読んで書くものですが,こういう想像で描かれたものについては,文脈をしっかり読み取っていないということで、「即却下される」ということです。
よく勘違いされるのですが,読書感想文コンクールなど,子どもだけを対象になってると思われがちですが、成人の部門も確かあったと思います。
私は教師にはなりましたが、小学校五年生のとき,課題図書で「ひれから手へ」という進化を主題とした科学の読み物での本で、市の三十二校の代表に選ばれたほどの感想文を書いたことがあります。
はっきり言えることは,本に関係のないことを想像したり,脱線したりして書いたら間違いなく落選になることは確実です。
こういう感想文を許してしまうと,これで、本人は,「文章を読み取った。」というふうに勘違いしてしまい, 中学校受験から大学院受験に至るまで、国語が分からなくなってしまい,読み取りで失敗してしまうことになります。
こういう癖をつけないためには、やはり,作者の意図を読み取って、その文脈に沿った感想を考えるのが国語の能力だと私は思いますし、それが正解だと思います。
ちなみに、作者・新見南吉の生い立ちや,ほかの作品などにも精通している先生だと、教え方も違ってくると思います。 この場合、教えた先生にも問題があるのではないか?ということは疑っても良いかと思います。
感想文ではなくて、「このお話から,どんなことを読み取りましたか?それを作文にしましょう。」という形だったら、もっと良かったと思います。
新見南吉の生い立ちは、決して幸福なものではありませんでした。 早くに母親を亡くして、親戚の家に預けられ,人間不信になるような経験をたくさん幼少期にしていということが分っています。
彼が天才だと言われる所以は、たった十八歳で「人と人とのすれ違いや、分かり合えない悲しさを」を「ごんぎつね」という形で,ほぼ完璧な文章に仕上げたことでしょうか。 そこまで深い教材研究をやってこそ、教師の資質だと私は思います。