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ハンス・カロッサの 第一次世界大戦時の戦場を綴った「ルーマニア日記」。

「ルーマニア日記」は、薄い本ですが、読み終えるのに苦労しました。
高橋健二氏訳の「ルーマニア日記」をゆっくり読み進みました。第一次世界大戦初期、ルーマニアは露・(仏)側について戦いましたが、ロシア革命(1917)のため、ロシアが戦線から離脱。そのため、ルーマニアは単独でドイツ帝国側と戦う事になる。 ただし、オーストリア・ハンガリー帝国内には、ルーマニア系住民もおり、彼らはドイツ帝国側に立って戦い、ルーマニア人同士が敵味方になる場合もあった、と言う点、 時代背景としての複雑さを理解しなくてはならない、と思いました。基本的に国と民族がほぼ一致している今の日本人には理解が難しい状況かと思います。この頃のドイツはプロイセンを含むドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich)でした。
主人公は、軍医として、ドイツからルーマニア戦線の内部へと進んで行くわけです。軍医は敵攻撃には直接参加せず、運ばれて来る負傷兵や死者と次々と対面して行く訳です。勿論、銃弾は軍医の頭の上を飛んでいるわけですが、主人公は軍医として、また、元々の性格の冷静さも保ちながら、ルーマニア内部で起こった傷ついた、又、死に至る人々の出来事を定期的に日記の形で勤勉に書き続ける。戦場でひどく傷付き、死ぬ運命の兵にはモルヒネを打つ場合もありました。「 だが、おそらく、意識を持ちながら死ぬものには、どんなにしてでも免れたいと思う、果てしなく寂しい、果てしなく辛い苦痛があるのだろう(87頁)」。死に行く人が、まだ生きているうちに感じる果てしない寂しさ、辛い苦痛とは何だろう。極限状態の中で、誰もが感じるのだろうか、今生きている人間として、自分は死に瀕したら、自らの苦しさや苦痛について、どう感じるだろうか。唯単に生物として死す事が出来るのか。
ルーマニアとハンガリーの国境線では、マジャール語を話す住民の声が聞こえる。ドイツ語とマジャール語では会話は出来ないが、戦争状況の中で、生存のために必要最低限の意思疎通がなさる。また、連合軍の中、或いは、敵兵捕虜との間で、いろいろな言語が飛び交う。戦争状況の中では、兵士だけが空間の主役ではなく、一人一人、或いは、戦地に住む家々の一族も、並行して戦いと生活を続けている。
主人公は軍医として敵を直接襲撃はしなかったが故に、戦場に晒される者の生活を冷静に読み込み、言葉に乗せられたのだと思います。

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