祖霊崇拝、輪廻、六道、見失われた死の意味
2022年11月7日に配信した『淺野幸彦メールマガジン:リベラルアーツ事始め(https://www.mag2.com/m/0001696198) No.10』をnoteにアップします。
祖霊崇拝、輪廻、現代を生きる私たちにとり死の意味とは・・・、などについて考えています。
■はじめに 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」
中国・唐代の詩人、李白の文章を踏まえた、江戸時代の俳人、松尾芭蕉の「奥の細道」の序の冒頭に記されている「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」とはいえ、新型コロナ変異株がおさまる気配のない今年も、いつもの年にもまして、月日の過ぎ去るのが速いと感じます。
いままでも、酔生夢死、胡蝶の夢、邯鄲の枕のような日々を送ってきたような気がしますが。まさに光陰矢の如しです。
※胡蝶の夢 https://domani.shogakukan.co.jp/616115
※邯鄲の枕 https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/4559.php
馬齢を重ね、「少年老い易く学成り難し」であるにもかかわらず「一寸の光陰、軽んずべからず」とはなかなかいかないものです。やれやれ・・・。
■輪廻転生、六道遊行
仏教では、悟りを開き二度と生まれ変わることのない安らかな境地、涅槃(ねはん)至らない、つまり解脱しない限り、業を背負っての輪廻転生、六道遊行の旅をし続けると説かれています。
■六道とは
「天道」天人が住む世界。
天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、享楽的また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされていますが・・・、仏教に出会えず、煩悩から解き放たれていないので、解脱はできず転生していきます。
「人間道」人間が住む世界。
四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界ですが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるでしょう。また、唯一自力で仏教に出会える世界で、解脱し仏になりうるという救いもあと説かれています。
「修羅道」阿修羅の住む世界
修羅は終始戦い、争うとされています。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界だそうです。
「畜生道」牛馬など畜生の世界
ほとんど本能ばかりで生きており、使役されなされるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされています。
「餓鬼道」餓鬼の世界
餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされ世界です。他人を慮らなかったために餓鬼になった例があると説かれています。旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われるのだそうです。
「地獄道」罪を償わせるための世界
ここがたとえ天道だとしても、「天人五衰」のおとろえ、死の兆しからは逃れえない。
果たして今生の私たちは六道の世界のどのあたりにいるのでしょう。
※天人五衰 https://is.gd/1SOUEn
■年忌法要とは?
仏教発祥の地、インドでは出家主義(いわゆる悟りを開く)で、死者儀礼をしていませんでした。
輪廻と解脱を中心思想とする仏教では、本来、死者の祭祀はあり得ません。
悟りを得られなかった死者は、死後四十九日までに転生をするという中陰説をとっています。つまり輪廻転生、六道のどこかに生まれ変わっているか、あるいは解脱していて祭祀する必要がないからです。
年忌法要の風習は、中国に伝来した時、祖霊崇拝と儒教が説く『孝』という考え方を結び付けて仏教に取り入れられました。
初七日から二七日・・・四十九日までの各七日のお勤め、百ヶ日、一周忌、三回忌まで行われ、日本に伝来して鎌倉時代までは三回忌まで行われたそうです。
それがどんどん増えていき期間も伸びていき、現在では、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十五回忌、二十七回忌、三十三回忌、三十七回忌、四十三回忌、四十七回忌、五十回忌、百回忌、百五十回忌、二百回忌と、50・100年区切りの年も行われる地域や家もあるようです。
お寺にお墓のある人はだいたい三十三回忌、五十回忌で弔い上げをして区切りとしていると某葬儀社さんのHPにはありましたが、それでも長いと感じますが、みなさんはどうですか。
■3と7の重要性
ちなみに亡くなってから「3」「7」のつく年忌の年に行なわれる理由には諸説ありますが、一番説得力があると感じたのは以下の説です。
仏教で大切にする数字は「3」と「7」です。
「7」は、釈迦が生まれたとき七歩歩いたという伝説も有名ですが、これは、私たちの迷いの姿である「六道」の世界を超えて悟りに至る、ということを暗示しています。
そこから「6」を超える=「7」という数字が、野球のラッキーセブンとは関係ありませんが、迷いを超えるという意味で大切にされると言われています。
また、「3」も同じく、「2」を超えるという意味だそうです。
「2」を超えるというのは、「有・無」「勝・負」「損・得」というような両極端に偏った考え方を離れ、中道の生き方をするということを意味します。
中道と言うのは、仏教でさとりを目指す上で大切な考え方で、釈迦も息子のラゴラ尊者に、「二を超える生き方をせよ」と語っていたと伝えられています。
そういう意味で「3」という数字も大切にされています。
■仏教では死は穢れではないので、死を忌まない
本来仏教は死を穢れと考えないので、死を忌むという考えはありませんが、「忌」と言う漢字が使用されています。
漢字学者の白川静さんの「常用字解」という本で調べてみると、
『「忌」は折れ曲がる形、ひざまずいてからだを曲げる「己」と「心」を組み合わせたもので、ひざまずいてつつしんで神に仕えるときの心情、思いをいう字であろう。禁忌(けがれがあるとして禁止すること。タブー)を守り、身を清め、つつしむことを「いむ」という』
とあります。
繰り返しになりますが「○○忌」と言う言葉や風習は、死を穢れと考える中国に仏教が伝来した後で、祖先崇拝をベースとする儒教の影響を受けたものです。そしてさらに日本に定着していく過程で、仏教は祖先崇拝と深く融合していったのでしょう。
■儒教の直線的な時間概念と仏教の循環的な時間概念
儒教は「孝」の論理による、祖先崇拝という過去・現在・未来へと直線的に受け継がれ連続していく時間概念を持っているとすれば、仏教は輪廻という循環的な時間概念と、解脱という循環から解き放たれて語りえないものへとジャンプする非時間的な志向を持っているといえるかもしれません。
■祖先崇拝や「孝」と統治の論理
日本における仏教は、祖先崇拝とご先祖様のご加護(守ってくれる)による子孫の繁栄をいう、儒教的な色彩も強いのですね。
仏壇の位牌に手を合わせて祖先を祭祀することも、仏教ではなく儒教の儀礼です。
この祖先崇拝や「孝」の考え方を為政者が統治の論理として利用してきたことも事実です。
「南総里見八犬伝」に出てくる八犬士は、仁義礼智、忠信孝悌の8つの徳目を持った人物が活躍すします。
仁(誰それと隔たりなくいつくしむ心)、
義(義理人情を尽くす心)、
礼(礼儀を重んじ感謝する心)、
智(善悪を見分ける心)、
忠(まごころで仕える心)、
信(信じる心)、
孝(先祖を大切にする心)、
悌(仲良くする心)。
そしてさらに、胆(ものごとに動じない心)と勇(やり遂げんとする心)が加えた10の徳目が、日本人の行動と内面の道徳として大きな影響を与えてきました。
■死の意味を与えてきた準拠枠が解体された現代
現代を生きる私たちは急速にこれらの徳目を風化させていきつつあり、同時に仏教にせよ儒教にせよ、私たちに死の意味を与えてきた準拠枠が解体され、現代人にとり死の意味は見失われつつあります。
みなさんにとり「死」の意味は何でしょう。
次回、私たち現代人にとっての「死」の意味ついて、続きを考えていきたいと思います。