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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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#芸術

現状の現代美術には、そろそろ名前が必要なのではないかと思ふ⋯

私は、個人的に「現代美術」というのは「状況を表す言葉」であって「分野ではない」と思っています。 芸術分野に限らず「現代〇〇」というものは、今まさに生まれ続けている進行中のもので、まだ価値観が定まらず名前の付いていないものと考えているのです⋯だからとりあえず「現代」という時代で曖昧にまとめ言い表しているわけです。というか、常識的にはそう考えるのではないでしょうか。 (生み出す側も、受け止める側も模索状態、あるいは生み出す側の意図は明快だとしても受け止める側の価値観の創出がま

今、現代美術とされている分野はゲームに似ていると思う

普通一般の人々が思い浮かべる「現代美術」というものは、その時代の「前衛」のような、まだ形式や評価が定まっていないものから、先進的かつ既に社会に受け入れられ機能しているものまでを含めた「新しいものを作り出そうとする意欲の強い、実験的要素も含む、今出来の表現物の事を特に分類して現代美術と呼ぶ」・・・そんな感じではないでしょうか。 私も含めた一般社会人にとってはそれで充分ですし、それで日常生活に困る事はありません。 * * * * * * * *  何かしらの創作様式や作品が

マティスが好きです

私は、画家のアンリ・マティスが大好きであります。創作的にも非常に影響を受けました。 今回は、そんな話を書いてみます。 好きが過ぎて長くなり過ぎないように気をつけなければ・・・ マティスの一番最初の記憶は小学校の時の美術の教科書です。 記憶では1948年の平塗系の絵「パイナップル」と他に何か・・・が載っていて、それが「なんだか良く分からないけど、こういう塗り絵みたいな絵でも巨匠なんだなあ」と思って印象に残りました。 その後、中学生ぐらいになって上写真の「マグノリアのあ

手作りという魔法は無い

私は、現代において「手で作る必然のあるもの」によって「いわゆる手工芸品」では到達出来ない創作性を「現出」させ、美をたたえているものを作りたいと思っています。 昔から、最上品はそうでした。 それは手作りだから良いとかそういうことは関係なく、良いのです。 昔の工芸品の素晴らしいものを、天然素材だから、手作りだから、苦労して作ったから、技術が素晴らしいからとか、そういう面で感動する人はいないと思います。 それは理由なく人々の心を打つものだから、飽きられることもなく長年ずっと

工芸品と芸術品の性質の違い

私は普段、このnoteに書いている通り、全ての人為と人造物は等価なので、例えば工芸品と芸術品の「上下は無い」としております。 工芸品の創作的に進化した最終形態が芸術品みたいに言われますが、そういう事実は無いという立場です。 「この蒔絵は工芸品を超越して最早芸術品である」 みたいな言い方ですね。そんな事あるかーい!笑 工芸品と芸術作品は、人造物の分野の違いに過ぎません。 しかし、それぞれ性質が違うところがいくつかあると思っております。 例えば、工芸品と芸術品とでは、

表現の自由とは言うけども「人としてどうよ?」というレベルになると、つまらないものになりますよね

いくら芸術表現は自由だと言っても「人としてどうよ?」というレベルに行ってしまうと、面白くなくなるのではないでしょうか? 以前も書きましたが、映画で、殺人のシーンの上手い描写のものはリアリティを持って人の心に暴力の怖さを響かせますが、本当のスナッフムービーになると、それはもう創作ではないのです。それはただの殺人の様子を収めた映像で「身も蓋もないおぞましい事実」だけになってしまうのです。 それと同じような「作品」なるものが表現の自由として展示され、それを称賛する人たちがいるわ

当工房の、作品制作の進行方法、並びに展示会の際の仕事の進め方

今回は、当工房「Foglia フォリア」では、日常の作品制作並びに個展や展示会用の作品を制作する際に、どのように仕事を進めて行くかを説明してみます。 (フォリアは和装染色品と絵画の制作・販売を行っております) なるべく具体的に書こう・・・と書き連ねていたら、長くなってしまいました・・・ それはともかく、 個展等で、まとめて作品制作する際には「日常制作しているものを溜めておいて出品する」のではなく、コンセプトを決めたり、時流を測った上で、テーマを決め、制作する事が多いで

表現の自由は認めますが、その自由によって生まれたものを避ける自由も大切だと考えます

わたくし、工芸やら芸術やらの界隈に長年生息しておりますが(メジャーシーンにはおりませんが、笑)なんだか一部の芸術家なる人々やその界隈が愛好し評価する、ワケわからない作品・・・無意味にゲスかったり、グロかったり、エロかったり、ただメチャクチャだったり、ふざけていたり、ただの怨恨を形にしただけの作品だったり、異様に偏った思想(政治思想も含む)を説明するためのものだったり・・・ 市井の人間からすれば「単純にドン引きしてしまう芸術作品なるもの」が、普通に苦手ですし、それらを現代の先

表現の自由という美名で、やりたい放題に「表現を暴力として使う人たち」が苦手です

最近の(2022年7月)朝日新聞の、安倍晋三元首相に対する川柳問題は「表現の不自由展」と同じような背景があるように思います。 私にはどちらの作品も理解出来ません。 風刺的表現物自体は、もちろんあって良いものですし問題無いのですが、そういうものには高度な教養とセンスと、大きな愛情が必要です。また、そうでないと「鋭い風刺表現」が出来ないと思います。 Twitterなどで、芸術家、音楽家、落語家、演劇関係の人など(その他いろいろ)が、政権批判したり、誰か個人を攻撃しているのを

創作系で、ルールや定番が希薄になるほど文脈にうるさくなるのは、人間にはルールや定番が必要なためではないか?

・・・と、私は考えております。 人間は自由自由と実にウルサイですが、実はルールや定番が大好きで、自分が自由を求める分野以外で特に不便を感じない場合は、そのようなルールや定番に何の疑問も持たずに日常生活を過ごしております。 過不足無く機能しているルールや定番は、良く計画され施設されたインフラのようなものです。人々はそれをベースに、そこで不満を感じる事無く自由に振る舞っているのです。 それゆえ常に「ルール・定番」を観察し、機能不全を起こしている場合は改変する必要があります。

人は自分のためだけにやり切る事は出来ないもの・・・

工芸品に限らず、創作物全体に対して、個人的に思う事ですが 作物の底に「自分以外の存在に対する祈り」のあるものが良いです それは大それたものではなく、高尚なものでもなく、素朴で素直で健康的な・・・人間が自然に持つタイプのもの 人の存在、人の生活、自然・・・自分だけではない他者への祈り 作る人の祈り、使う人の祈り、そのどちらも受け止める事が出来る「どちらの祈りも受け止める存在」であるものが良いなあと、私は特に最近感じます。不景気やコロナ、戦争・・・のせいで余計にそう感じる

民藝論と仏教的思想と美、矛盾と実績

柳宗悦は、当時は審美的な価値が無いとされた雑器などに「民藝」という概念を創出し、その美を世に解き放った大功労者です。 しかし、柳の民藝論や実際の活動や晩年の著作などを観ると、私は民藝論に矛盾を感じます。 晩年の名著とされている「美の法門」を読むと「美醜の区別を超越したところに芸術というものがある」としていますが、柳の活動を検証したり著作を読むと実際には理論的にも実質的にも「民藝美が至高」となっています。 もちろん、単なる個人の嗜好として民藝こそ至高、とするのは問題無いと

美に特性は無い

私は美を以下のように把握しております。 これはいわゆる学術的な美学に依存しない美の把握方法です。これは誰かの考えの踏襲ではなく、自分の目と精神による観察+この考えによる長年の行動+検証によって導かれたものですので、創作関係だけではなく、日常生活のなかで「実質的に機能する美の把握方法」と思っております。 ここで言う美は、きれいとか、美醜面の美しさ、というものではありません。芸術界隈の特別な何かではなく、美は実はどこにでもあります。自然のなかには必ず、人為・人造物のなかには時

技法や方式自体を目的化・価値化しても創作的な質が保証されるとは限りませんよね

伝統に関わる何かしらの物や事、そして地域の特産品などの品質を一定以上に保ち続けるため、何かしらの決まりをつくり、それに正しく従ったものだけを正規のものとして認定する、というのは良く行われる事です。 その仕組み自体は良いものなのですが・・・ しかし、その決まりのなかの何かしらの技法や方式・・・その決められた範囲で数種の選択肢が許されているのに、一部だけを取り上げ「これだけがホンモノ」とし「それを行っているウチだけがホンモノで他はニセモノ」と、一方的に自分を上げ、他を下げる人