私が私を否定する人と結婚したのは必然だった
シングルマザーのyukiです。
最近苦しくて悲しくて眠れない日が続いていたので、
久しぶりに書いてみます。
どの位落ち込んでいるかというと、
仕事中に涙が出そうになるくらい。(ただのヤバいやつ)
でも疲れていたのです。
なぜなら私は否定されないといけなかったから。
否定されないといけない?なんか文章打ち間違えてる?という感じですが間違ってません。
私は私を否定しないといけなかったのです。
1.否定された先にある物
結論から言うと、私は自分や人から否定されることで得られるものがあったのです。
それは"同情" です。
大人になってから同情を引くような行為をするなんて
冷静にみたらこの上なくダサい。みっともない。
そんなやつが近くにいたら絶対に友達になりたくない。
でもそれは私にとってはご褒美だったのです。
2.子育てが嫌いな母
母は保育士資格を持つ専業主婦でしたが、子育てが嫌いでした。
他人の子は懐いてくれるのでいいのです。
でもわがままを言ったり泣いたりすることをとても嫌がりました。
自分の思い通りにならないことや理想と違うことをすると即座に否定しました。
すぐにヒステリックになり、なんでも全てを自分の思い通りにしたがる母。
思い通りにならない時は、私はあなたのせいですごく我慢してるのよ。という態度を取りました。
そんな母はとても心が弱かったので、
自分が叱ることで私が泣くことに、罪悪感でひどく傷ついたと言っていました。
何歳からそれを感覚的に察知したのかは分かりません。
私はそれを察知して、母によく泣き落としをしていました。
"かわいそうな私を見せると罪悪感を持った母は私に優しくしてくれた"のです。
今となってはそれは罪悪感の償いであって愛情でもなんでもなくただの同情と贖罪だったことがわかりますが、当時はそれでも優しくしてくれるのが嬉しかったのです。
3.私を否定する人は私を愛してくれる人だと思っていた
母から受け取りたい愛情を受け取れなかった私。
一方で「かわいそうな私」や「自分を否定して、母の言うとおりにする私」であれば愛情のようなものを受け取れることを理解した私は、
それを強く強く追い求めることになります。
そして、やがて結婚相手にも同じようにして愛情を求めるようになりました。
愛情とはそういうものだと思っていたからです。
元夫との関係がうまくいかない時
愛情を感じなくなった時
私は必死にかわいそうな自分になりました。
こんなに辛くて
こんなにかわいそうで
こんなに大変な私。
そして時には相手に罪悪感を植え付けるような言葉を探しました。
それが彼を振り向かせる方法だと信じてやまなかったのです。
恋人だった時は、彼も私を守ろうとそれはそれはその話を聞いて一緒に怒り、大変だったね。と慰めてくれました。
何かあったら俺が助けるから。とまで。
彼は彼で自分より立場が低い人間を見て安心していたんですよね。
だから私のような不憫な人間がそばにいることで
こんな拙い自分でも世の中の立派な男性のように守れるものがある、と安堵していたのです。
ただ、それは「悪者」が「自分」じゃなかったからできたことだったのです。
子育てとなればそうはいきません。
妻が辛い時、助けないといけないのは自分です。
それは無理!と彼は逃げました。
同情してもらえれば彼の気が引ける?
なんてことはもちろんなく。
生活は破綻していきました。
4.幸せと向き合うには
幸せになりたい反面、
「かわいそうな自分の方が優しくしてもらえる」という誤学習により
明るく楽しくなれず、悩んでいる自分を愛している自分がいる今、
どうやったら本来の幸せを感じて受け取れるのか、
自分を大切にする方法を色々と調べてみました。
よく「自分を大切にするには」という方法を読むと、だいたい、
「小さい頃に傷ついた自分を癒して受け止めてあげましょう。その時の自分に辛かったねと言ってあげましょう」みたいなのが出てきて、それを読むたびに、
「はぁん?私は母に愛されたかったの。私が私に寄り添っても私が母に愛されるわけではないし、何も満たされない!」
と思っていました。
正直、今でも思っています。
ないものねだりであることも、事実として受け取れる未来がないことも頭では理解しますが、
私が欲しいのは母の無条件の愛情でそれ以外のものをもらっても満たされない。
と思ってしまうのです。
それに、どうせもう手に入らないのであれば、かわいそうな私の方がまだ人に振り向かれる可能性があるとすら思っていました。
でも。
"自分の幸せを決めるのはだれなんだろう?"
って考えると、それって結局自分なんですよね。
どんなに承認欲求が強くても
どんなに愛情不足でも
「幸せだ」と感じることを決められるのは自分でしかないのです。
"かわいそうな私"でいることもできますが、
それが満たされた時に私は満足できるのか?と言われると
絶対に満足できないと言いきれました。
なんなら永遠にその承認欲求を貪る確固たる自信すらありました。
つまり私は一生幸せになれないと自分で決めていたのです。
それは承認欲求だけではなく、
渇望感は何事においても際限がなかったのです。
おいしいものを食べてその時は満たされていてもまた新しい気になるものが出てくれば食べたくなるし食べ進めて残りが少なくなればもうこれしかない…となる。
素敵な家に住めたとしても、最新の家や知人や友人の住む家はそれぞれ素敵に思えてくる。
人に優しくしてもらっても、かわいそうだねと慰められても、本当にキリがなかったのです。
たとえ今より素敵な何かを手に入れても、
「年収が平均より上だから幸せだ。」
「人より先にこれを手に入れたから幸せだ。」など、
結局は「幸せだと感じるかどうかを自分が決めている」ことに気づいてしまったのです。
年収が平均以上なら幸せだし安心です!なんて誰も言わないですからね。
自分で決めているのです。
だったら、「幸せな私」の基準を「自分で」決めよう。
そこで初めてそう思いました。
5.幸せになる方法
それは、"今"だけに目を向けることでした。
今までの私は過去と未来と人を交互に見て、
"今の自分"をあまり大切にしてきませんでした。
・こんな年収じゃ将来が不安だ。病気になったら生きていけない。
・こんな見た目じゃ結婚できないかもしれない
・子供の将来を考えて調べなきゃいけない
・私は過去にあんなことがあってすごく辛かった。あの出来事があったからこの先もうまくいかないだろう。とかね。
でも、年収は少なくても
"今"お金に困ることなく暮らせている
"今"住む家もある
"今"子供も家族も健康に過ごせている
"今"仕事もあって協力してくれる仲間もいる
"今"大好きな生ハムを食べられる位のお金はある
"今"全部一気に使えるわけではないけれど、貯金もあるから困った時にはどうにかなる。
将来のことはわからないけど、
今の幸せは幸せとして受け止めよう。
その上でもっと幸せが欲しければ、それはまた目標に向かって頑張ろうと思いました。
悲しくなる時もあるけど!
気持ちが落ち込む時もあるけど!
不幸な自分からの脱却を意識していきたいなと思います。
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