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精神と時の部屋
落ち着いて働けるようになった。
きちんと仕事ができているかという観点でいうとまだ微妙だし、今ではなく少ししたら方向性をもう一度考え直して転職したいとも思うけれど。
勤め先は所謂ホワイト企業で、残業も多くなく休暇も取りやすい。
それでも壊れてしまった自分をずっと認められなくて、どうしてこの程度でこんなことになってしまったのか何度も思い続けてきた。
だけどやっぱり、私は結局おやすみするしかなかったんだと思う。
今、全然泣きそうになったりしていない。
理由があって泣くことはきっとまだたまに出てくるんだろうけれど、よくわからなくても毎日涙が出てくるという感じがめっきりなくなった。
理由がどうであれ道を歩いていて涙が出る状態はやっぱり普通ではなくて、今こうして比較的安定して過ごせる自分になるために、一旦離れることが必要だったのかもしれない。
安定してきた理由は多分、諦めたことだ。
職場に居場所感を求めることを、諦めた。
仕事となにかを繋げようと躍起になることを、諦めた。
誰かに見てもらうために着飾ることを、諦めた。
そしたら少し、割り切ることが以前よりもできるようになってきた。
復職したての頃、友達と昼休みに毎日大量のラインのやりとりをしていた。
昼休みに何をしているか、休日どんなことをして楽しいと思えるか、そんな話を数日に渡りし続けた。
その中でそんなこと考えてもいないしみんなそうではないだろうか、ということを繰り返し言われた。
求め過ぎているほどのものはないとは思いつつも、どこかやっと折り合いをつける点がわかってきた。
日々過ぎる時間は、早く終われと思って時間を過ごしても、大切に生きようと思って味わっても、同じだけ若さを経験に変換していく。
特別じゃない今日も、特別なことを見つけたりつくったりすれば、少しずつ大切に生きられる度合いが強まる。
こんな回り道が必要だったかといえばそんなことはない人の方が圧倒的に多いんだろうけれど、それでも私はこうしないとどうにもならなかった。
長い時間を精神と時の部屋で過ごして、理由のない涙を何度も流して、やっと見えてきたことや理解できるようになったことがたくさんある。
仕事がどうこうではない部分の自分の問題で、仕事を休まざるを得ない状況になってしまったのは本当に良くなかった。
今の職場自体に非はないと、私は心から思っている。
それでも、できない自分を一生懸命拾い集めて変化のギャップを拒絶し続けた私は、いとも簡単に壊れてしまった。
壊れてしまってやっと、自分を大切にしたりいいことに目を向けて生きることが必要なことなのだと、ここまできてようやくわかるようになった。
もっと早くにこういうことがわかっていたら、歩く道が違ったであろうとも何度も思うけれど、今ある現実は手の上にあるものだけだ。
ここから何を選び取っていくか、選択権はいつだって自分の中にある。
どうしたいか、どうしたら自分は幸せだと感じられるか。
何度もまたまた振り返って、納得いく人生を歩きたい。
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