不動明王と草薙剣
僕の場合、自分に向き合いたい時は、神社よりもお寺に行く。
あの、神社とは違った「静寂」が内観に適している。
また、仏に関して言うと、
不動明王
が好きである。
僕は座り、内観する。
自分の中にある「貪瞋痴(とんじんち)」に向き合う。
当たり前だが、この貪瞋痴を克服するのは「自分」であり、不動明王ではない。
ではなぜ、不動明王が必要なのか?つ
理由は、それを
心の中に置くため
である。
左手に「縛の縄」を持ち、改心しなければ、その縄で引きずり出す。
右手に「剣」を持ち、それを断つ。
背中に「大火炎」を背負い、断ったものを焼き尽くす。
この「行い」を心に置くのだ。
依存や甘え、はたまた、自己憐憫といった
湿り
~重い波動~ を捨てていく。
それを、
掃除洗濯
あるいは
禊
ともいうだろう。
僕はそれを「修行」と呼ぶ。
そうして人は鍛えられる。
ナマクラな鉄は、「鋼」となっていく。
スサノオがヤマタノオロチを退治した時、手にしていたのは
十握剣(とつかのつるぎ)
だが、その神剣も、ヤマタノオロチの尻尾にあった
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
により欠けたのである。
そしてその天叢雲剣は後に
草薙剣(くさなぎのつるぎ)
となって、別の神を救った。
つまり・・
人が鍛えられて「鋼」になれば、神のお役に立てるやもしれぬ。自らが「剣」となれば。
ただそれは、自分にしかできない。
そののちに、道が示されるだろう。