時とともに歌の意味も変わる 「短歌西荻派の夕べ」@西荻窪・今野書店
11月に入って月初の仕事の波を一つ乗り越え、少しほっとしているところです。
さて、「短歌西荻派の夕べ」の続きです。
このイベントでは短歌西荻派の枡野浩一さん、木下龍也さん、山階基さんのお三方が、お互いの作品についてコメントする時間もありました。
<枡野さんの作品>
木下さんが選んだ作品は
「殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である」。
木下さんは東京理科大学で講義をした際、学生の方に
「今元気がないので、元気のでる短歌を教えて欲しい」
と言われてこの歌を紹介したら、めちゃくちゃうけていたとか。
ちなみに、その講義に出席している学生さんたちはもともと短歌に興味があるわけではないとのこと。
木下さんは
「そういう短歌に親しみのない方も、枡野さんの短歌はすっと意味が取れる。
そして、本来目標はネガティブなものではないことが多いんだけど、その通常を一回捻って出すことを枡野さんは得意とされていると思った。」
山階さんが選んだのは
「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」
山階さん曰く、
「枡野さんの短歌は自分と他人のことを等価値として扱っている感じがある。」「(この歌を含めて)枡野さんの歌には
『これを言ったら多くの人の悪口になるな』
という歌がかなりある。
それはある意味、普遍性があるということでもあるし、多くの人の性質を言い当てていることでもあって、それがすごいことだと思う」。
<木下さんの作品>
山階さんが選んだのは
「だしぬけに葡萄の種を吐き出せば葡萄の種の影が遅れる」。
前回の投稿に書いた手法で、感覚と世界の現象がねじれている状態を描いたもの。
実際には種も影も同じ速度で動くのですが、
「この影だけ遅らせることができたら」
と考えて実景をいじってみたのだそうです。
枡野さんが選んだ作品は
「夏になればとあなたは言った夏になればすべてがうまく行くかのように」
「あなたとの関係も夏になるまで続くかどうかわからない」
という儚さがすごく自然に描かれているのがお好きとのこと。
木下さんはがこの歌を作ったのはコロナ禍前の2016年だったそうですが、それを知らずに今読むと、最初の言葉は
「夏になればコロナもおさまるだろう、と相手が言った」
ようにも取れます。
「コロナ禍でいろいろなことが変わり、親しい人と会うことも減っている。
あなたとの関係もどうなるかわからない」
という風にも読めませんか?
この歌の作者の木下さんも
「自分としても読み方が変わった。
歌は変わらないけど読み方も変わるし我々も変わる。」
山階さんも
「歌は置かれている状態によって変わる。
もちろん短歌に限ったことではないんだけど、短歌はテキスト量が少ない分、意味あいが余計に変わる気がする。」
山階さんご自身も過去(コロナ禍以前)にマスクの歌や体調を崩した時の歌を作ったことがあるそうですが、もしそれが今年や来年に本になったら、その過去の歌も違う意味に読めてしまうわけです。
「時代によって歌の意味も変わる」ことについては、皆さんそれぞれに感じることがおありのようで。
枡野さんの新刊は何冊かの短歌集が入った本なのですが、やはり年代がないと歌の意味が変わってしまうため、本の中にそれぞれの歌集の年代を入れることにしたのだそうです。
「自分では普遍的に書いているつもりでも、例えば固有名詞は、今も活躍されている方の名前でも多分読む人の感じるニュアンスが当時とは違うと思う。
作品を書いた時はご存命だったナンシー関さんのことも、亡くなった方のことを書いている歌としてはちょっと失礼な歌になっている。
(ちなみに、ナンシー関さんを取り上げた作品は
「カンペキな玉にも傷があるようにナンシー関に体重はある」。
それだけナンシー関さんが完璧である、ということです)
思っていたよりも時代が刻印されてしまう、ということは身にしみました。」
と話していました。
山階さんも
「それ(時代との関係性)がないと書けないですもんね。
今こうして2022年に生きていて歌を作っているから、影響は絶対受けている。
そのことも忘れちゃうかもしれないけど、こういう時に作った歌を見てその時の感情っていうよりは時代の感じみたいなものが蘇ったりとか、自分の歌でも人のものでもそうだけど(短歌には)そういう力がある」
と話していました。
長くなりましたので、山階さんの作品についての他のお二人のコメントはまた次回に。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*昨日お参りに行った武蔵野八幡宮にはもう「大酉の市」の文字が。もうそんな季節なんですね。