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映画「ニーチェの馬」からのニーチェ思想について / そうして永劫回帰へと行き着く先の決意
「ニーチェの馬」
(2011年、ハンガリー・フランス・スイス・ドイツ合作映画、タル・ベーラ監督)<2012年に映画館で鑑賞、当時ブログで以下記事を掲載>
先日見た映画「ニーチェの馬」を見て、また久しぶりにニーチェの思想のことなど暫く考えていた。
まるであの映画の中の親子が持つニヒリズムが特異なもののように映るかもしれないが、今この現代社会こそ、ある意味ニヒリズムに侵され蔓延している状態のような気がする。
19世紀に指摘された神の不在、以来の世の中の近代化、次第に神に依拠しない個人主義が芽生え、科学の発展、そして資本主義が世の中を征していく。
そして物や情報が溢れ、物質社会になった今、人々は完全に既存の価値観や理想を喪失してしまう混沌とした世界となる。
価値基準の喪失、それはアイデンティティさえも奪う、そうして心にぽっかりと穴が空いて呆然としている。
これを直視してしまう人は、たまらなくなり平常心を保てなくなりを病んでいく(ニーチェのように)、さらには自ら死を選択せざるを得ないことにもなろうが、その多くはその虚無感を出来るだけ意識せずに、受動的ニヒリスト化を避ける為の苦肉の策として作り上げたのが利己的楽観主義の世界なのではないだろうか。
国家的にもそんな理想や価値観や目標を喪失し、無害化されたニヒリズムの状態は好都合でもあろう。
そんな中にいる自分はルサンチマンな要素を多分に持っていることも認識しつつ、どこかで失望しながら、でも強く光を目指そうとしている為、多くの苦悩が常に取り巻く状況となっている。そこで永劫回帰という視点が芽生える。能動的ニヒリズムの先に自分もたどり着くのか。
同義語としてかという事は別としても、仏教の空の論理は以前から興味はありはしたものの自分の中に落とし込む感覚になれずにいた。
そんな自分には根底にあるニヒリズムという感覚からくる永劫回帰的スタンスを持つ流れは自然だったのかもしれない。
どうしても世界は人間の業が錯綜しすぎ、暗澹たる想いにしかならない自分への唯一の逃げ道。まるでニーチェが辿ったかのように。
自分は狂えるほど行ききれもせず、勇気も持てずに悶々としながら立ち往生している。
それらを吹っ切るということ。
何もない。どこにも価値などない。
世界で善とされていることも、世間で靡いてしまう権力や、老いていく人間への軽視、完全なる資本主義。刹那的な楽観で、気休めの様に時々ヒューマニズムをチラつかせ安堵させる。
何もない。
ただ、繰り返されるだけだ。
ただ空虚の中で繰り返していくという肯定を片手に、音楽を作り続けていけるのだろうかという疑問を抱きながら。
いや、タル・ベーラが言うように、それすら存在するだけでいいのかもしれない。
その存在を形にすることに没頭すればいいだけのことなのかもしれない。