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映画「怪物」の感想 / 誰にでも持ち得る”怪物”の正体と性的マイノリティについて

是枝裕和監督。2023年6月公開。
『第76回カンヌ国際映画祭』でクィアパルム賞を受賞した本作は三部構成となっており、第三章では部屋から居なくなった湊(黒川想矢)の視点から、湊と依里(柊木陽太)の同性愛的な関係性が描かれる。

LGBTQのテーマについて質問があった際に、監督は「そのことに特化した作品だと自分としてはとらえていない」と答えていたものの、性的マイノリティの子どもたちを扱った映画ではあると話している。

私は安藤サクラと脚本家の坂元 裕二が好きなので、そのテーマを一切知らずに鑑賞した。
"怪物"という言葉からもっと究極の狂気性や残虐性について、何か事件が起きてしまうのではないか、誰がその怪物であるのかを探るサスペンス的な作品かと思っていたが、見進めていく内に違う事に気付く。

<以下、ネタバレありますのでご留意ください。また考察はあくまでも私個人の解釈なのでご了承ください>



それぞれの視点でそれぞれ描きながら伏線回収していく

■麦野母(安藤さくら)の視点から学校側の教員達、保利先生の態度にブチ切れる
■保利先生の視点から、彼女とのやり取り、母親のモンペ具合、嘘をつく生徒達
■星野くんの視点から、父親の体罰、暴言、そして学校でのいじめ
■麦野くんの視点から、実際に起きている事象、大人達から断片的に捉えられている事の行動理由

それぞれ語り手の視点で描かれる構成がとても興味深くて好き。
母親からの視点で見るストーリーでは子供がいじめを受けている様にしか見えないし、先生の視点では問題ある母親、生徒達を持て余して悩ましいように見える。
でも実際は計り知れないほど子供達側にも世界があって、感じている事があって、大人達は気付かない内に「普通でいい」「それでも男かよ」等という言葉でプレッシャーや抑圧をジワジワと感じさせ追い詰め、自分に向き合ったり、自分を受け入れる機会を逃してしまう事に繋がる。
そうして少しずつ自分の中の違和感と整合性が取れなくなる居心地悪さが現実を歪ませている様に見せてしまう。自我が確立できていない子供が故にどこを掴んだら良いか分からない状態で縋ったものが怪物とされる行為だったりするのかもしれない。まぁそれが判断つかない大人が事件を起こしてしまう事も多くあろう。

また、各章に"視点"があるからこそ感じてしまう「違和感」「奇妙さ」が見受けられる。
■湊の母親はそれこそ"普通"のお母さんの様にも見えるが、不倫旅行中の事故で亡くなったと思われる夫に誕生日ケーキを用意して、お父さんはもっと立派だとか、湊が普通の家族を持つまで頑張るとか、日常会話の中に潜む彼女の深層心理
■学校側は頑なに「申し訳ございませんでした」と言うだけで一辺倒な対応、校長が母親に向けて自分の亡くした孫との写真立てを見えるようにセットしたり、スーパーではしゃぐ子供達に足を引っ掛ける行為
■保利先生の部屋の死にかけた金魚、また金魚達を全部トイレに流そうとしたり、彼女との仲良さげでもあるが何か対話がぎこちなかったり、彼女の冷めた様な、ちょっとした意地悪さみたいなものが感じられたり、
■星野くんのお父さんが一番分かりやすいが、酒乱の様で、会って一言目の「(出身)学校どこ?」だったり、「豚の脳を持ってるから人間に戻してやろうと思ってるの」と虐待する暴君ぶり

そういった違和感があちこちに散りばめられていて、誰もが"怪物"である可能性を仄めかしている演出も感じる。
特にこの「豚の脳みそ」と言うキラーワードにかなり引っ張られて異様さは増していると思う。
依里くんにとって恋愛対象が女性でない「男らしくない=豚の脳」と言う父親の発想が何より怖い。これが現代の社会通念を表している様で心が痛くなる。


知覚する独自の世界"環世界"について

私が自身の作品テーマにもしている「視点」"環世界"について。
1つの事象に関わる人達の立場や思考や解釈によってこんなにも違って見えてしまう現実。事実は1つであっても"現実"はその人の数分だけ存在する。
自分が受け止める現実、解釈しているものとは全く異なる事も当然あり得るのだ。自分の中の「普通」で人を傷つけてしまっている事が日常あちこちで起きている。
それが時々怖くなる時がある。

生きている中で、家族の関係でも恋人同士でも友人同士、職場の人達、様々な関係性で構成される社会の中で、相手が存在する事を自分の見る"解釈"で想定する、「そういう場合は◯◯あろう」と思い込んでしまう罠が日常に溢れている。
だからこそ他人を完全に推し量ることは難しい。いや、推し量る事など不可能なのにそういう世界でどう人と関わっていくのかいつも考えて私は疲弊してしまう。でもそこを環世界に生きていると立て分けていく事が必要だと改めて思うのだ。


この映画の"怪物"とは

宣伝ポスターには「怪物 だーれだ」と書かれている。
それが誰のことなのかと探るミスリードはあるが、見進めていく内に見えてくる。
少年達はまだ不安定で多感な時期、自覚し得ない感情、持って生まれた性質にどう対処して良いか見つけていく過程が大切であろう。そんな中いじめをしてくる児童達、見て見ぬふりをしてしまう無関心さ、大人達からの既成概念の押し付け、教育を受けて、コントロールが効かない怪物を生み出してしまう。
虐待をしてくる父親を焼いて生まれ変わらせようとガールズバーに火を付けてしまったかもしれない、死んだ猫を火葬しようとする依里、湊も自分の中の否定されるべき要素(同性を好きになってしまう)を隠すために嘘をついて先生を陥れてしまったり、認められない想いを抑えるように髪を切ってしまったり、車から飛び降りたりする衝動。
この作品では自分で何となく感じているが受け止めきれない感覚がたまたま同性へ惹かれる気持ちだったが、人によっては様々な形でそんな心の奥の"闇"と言われる様な要素となって潜んでいる事は多くの人が持ち得る感覚であろう。
それらを"怪物"と言うタイトル通り、"異物"としているものを自分で認めて、どう受け止め生きていくか、それを問われている様に思える。


ラストシーンの見解

この映画のラストで、湊と依里の2人が台風から逃れて野原を駆け抜けるシーンは、2人が台風で亡くなってしまった見方が出来るという見解も多く見受けられる。
もしくは台風を乗り越えて希望に向かって解き放たれ、自由になったとも言える。
脚本を担った坂元氏のインタビューでは2人が死ぬ選択はないと語っているし、監督の是枝氏はどう解釈するかは観客へ委ねると言っている。

しかしラース・フォン・トリアー的な作品好きな私としては"取り返しのつかない"結果、2人が死んでしまうことでしか得られない大人達の”認識の後悔”という最悪のストーリーのインパクトが欲しくなったりもする気持ちもあるが、依里達が話す宇宙の終わりビッグランチで自分達は生まれ変わって時間を戻せば良いんじゃないかっていう流れから、きっと最後は時間を戻すのでなく、自分達が生まれ変わるのではなく、世界(環境)の方が変わって”自分達はそのままで、ありのままで良いのだ”という自己受容を手にし、自由への第一歩を歩み出した"希望"の表現でもあろう。


総括〜性的マイノリティと生きにくい世界〜

私にとって性的マイノリティが特別さを全く持たないからか(私自身がそうだと言うことではなく)、そこを意識する大人達、子供達(そう教育されているから)がそう言う人たちを特別視する事に意味をなさないと思うし、くだらないとさえ思う。この多様化した現代社会にまだそんな事言ってるのかと落胆さえする。

元々人間の"初期設定"は女性で、性別は受精した瞬間に決まり、それを決定するのは性染色体の種別の有無だと言われていて、更に生物学的な研究が進んできた昨今では、性別は単純に二元化できるものではないことが分かってきている。また心の性別は脳の違いで決まるという事は脳科学的にも言われてもいる。
そう言った科学的な見知からLGBTQの人たちが存在するのは何が異様であろうか。当然の事とさえ思える。

それでもそれを批判するステレオタイプな人達がまた多く存在する事も認めなければならない。だってそういう人たちが多数派の世界で私達は生きているのだから。

少し外れるが、いわゆる色々と気になる"繊細さん"と言うHSP(Highly Sensitive Person)なんて言葉も馴染みが出てきていて、割合にしたら4人に1人は該当するとも言われているが、やっぱり断然世の中には無神経な人が多いと自分も日々感じ苦しむ事がある。
でも上述した様に人は存在する数だけの感覚と価値観と思想があり、人は皆自由であるべきならばそれを否定したり、拒む事よりも自分の感性を活かす事に注力しようと今は思う。私にはそれをする為に自分である事を信じるしかない。

そんな事を考えさせられる作品だった。

#映画感想文



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