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季節のヴェールに 永き眠りをうかがう
第23週 9月8日〜9月14日の記憶。 それを探る試みです。
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。
今週。シュタイナーの“こよみ”では秋に突入です。季節の変わるタイミングで一年の循環や長い人生を俯瞰してみるとよいのかもしれません。気は早いですが、“冬に向かう秋の視点”で考察すべきヒントが、今週のメッセージのように感じられます。
では、読み解いてまいりましょう。
*
W. DREIUNDZWANZIGSTE WOCHE (8. SEPT. – 14. SEPT. [1912]).
23.
Es dämpfet herbstlich sich
Der Sinne Reizesstreben
In Lichtesoffenbarung mischen
Der Nebel dumpfe Schleier sich
Ich selber schau in Raumesweiten
Des Herbstes Winterschlaf
Der Sommer hat an mich
Sich selber hingegeben.
秋がきた
感覚はさらに発見を求め
明瞭な導きへと交じえる
ぼんやりとした霧のヴェールが広がり
広大なる余白のなかで
遠き冬の眠りをうかがう
夏は わたしに自らを与え
余韻を残した
*
秋がくる
さて、ようやく秋がやってきました。春夏と季節を過ごしその季節ごとの発見があなたを成長させてきました。秋も同様に、感覚からあなたの成長を促す、新たな気づきや発見がそこかしこに隠されているのでしょう。
今週のこの詞から感じられるのは、夏と冬の季節の対比から秋という時間を味わってごらんなさい。といわれている感じがしてきます。春に目覚め、夏はのびのびと成長し、秋は成熟し、そして冬にはひっそりと眠りにつき、という、一年間を通しての循環は、あなたの一生にも置き換えても考えられるようになるのでしょう。
そして秋の成熟の季節に何を想えばよいのか?
そのヒントとして、眠りに向けて枯れてゆく美しさに、気づき感覚してゆく。それが、明瞭な声として聴こえてくるような瞬間にこれから立ち会ってゆくのかもしれません。
*
死を想え
ニンゲンは犬に食われるほど自由だ
この衝撃的な写真集に触発され、学生の頃にインドを旅したことがありました。聖地のバラナシに到着する直前に、夜汽車はガンジス河の鉄橋を渡りました。開け放たれたデッキから、漆黒の河のなかへと白煙(電車ではなく汽車だったのですね)が吸い込まれてゆく光景を眺めていた記憶が、今でも焼き付いています。
インドでは、命の価値が日本とは違うことを、そこかしこで思い知らされます。まず、牛がカミサマなので、街のなかを平気でうろついて、ニンゲンサマより偉い存在なのです、そしてニンゲンも、牛以下のただの生き物にすぎないのであり。だから、生きとし生けるものが墓を持たぬように、この地ではニンゲンも墓を持つこともなく、死ねば焼かれ、“灰”がガンジスに流されることが最高の幸せにつながるのです。犬に少しぐらい食われても、自然に環ることで最高の安らぎがえられるのです。
藤原新也氏は、その現場をみて「実に感動的なことだと思った。美しい光景だと思った。インドという国はやはり凄い国だと思った。私は野に咲く花を撮るようなつもりで、それに向かってシャッターを押したのである。」といっています。とてつもなく自然で根源的な生を感じたのではないでしょうか?
翌朝。いよいよ、その光景を自分も体験すべくガンジス河のほとりに向かいました。そこには、予想していた死の静寂など微塵もありませんでした。火葬場で死をみつめる人の横では、物売りの声、そのなかで沐浴をする人々、河に飛び込む子供たちのはしゃぎ声、ひしめき合う喧噪が、ものすごい生命感を呼び覚まし、すべてを受けいれる河とともに、幸福感がひたすら押し寄せてくるのでありました。
*
自分の死は、自分にしかこない
「誰も、あなたの死を引き受けることはできない…。」
こういったのはハイデガーです。
死とは、それが死で「ある」かぎり、
その本質からして
つねにそのつど〈わたしのもの〉としてある。
しかも死とは、各人に固有の現存在の存在が端的に問われる
という特別な可能性を意味する
あなたは、自分の死と向き合うことによって、自分自身の本質を考えられるようになるのです。非常に愛する人がいたとして、その人の犠牲となって代わりに自分が死んだとしても、それは愛する人の死ではなく、自分の死になってしまうのです。
つまり、死を考えると、自分とは…?という問いに、
無理矢理にでもこたえなければ、ならなくなるのです。
*
命の期限
そしてあなたは、あと何年、生きられるのでしょうか?
人生100年といわれる昨今、ホントに100年も生きられるとしたら、
何をすればよいのでしょうか?
もし、命の期限を知ることができたなら…。
自分の人生をさらに計画的にすごせるはずなのに、
保険をかけて、とりあえず、長く安定して生きてゆけるように
社会はできていますよね。
でも、ロックスターのように、熱く短い人生を送りたい!
と一度や二度、思ったことはありませんか?
虫たちは自然が決めた一生のあいだ
ちゃんと育ち たべ 恋をし卵を産んで満足して死んでいくのよ
人間は虫よりも魚よりも犬や猫や猿よりも長生きだわ
その一生のあいだに
生きている喜びを見つけられればそれが幸福じゃないの?
人間は、生き物のなかで必要以上に“長生き”なのかもしれないと思うのです。そして、この長生きの部分に人間に与えられた使命が隠されているように感じるのです。
別の生き方があったのかもしれないなあ…。
と考えることが大切なのかもしれませんね。
そして今日から変えることもできる。
あなたが、生きている喜びが何なのかが探り当てられることを
大いなるものは望んでいるのかもしれませんね。
メメント・モリとは、「いつか必ず死ぬことを忘れるな」といった意味のコトバです。秋の季節は、冬(=死)に向かう季節でもあるのです。
あなたなりの「死への想い」を考えてみることで、
生きてゆくヒントを見つけ出してみてください。
*
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*
秋のヴェール
“こよみ”のなかでは、ここ最近、なんとなく秋の気配を漂わせていました。
そして今週、ようやく「秋」という具体的なコトバがでてきました。
散歩をしていると、暑さはすこしピークをすぎたレベルで、まだまだ真夏のようです。しかし、自然を観察していると、葉の緑はすこし和らぎ、蝉の声は日ごとに小さくなり、季節の足音が聞こえてきます。季節は大いなるものに導かれるかのごとく変化していっているのですね。
シュタイナーのいう霧のヴェール。秋の空気に入れかわった草原の上を霧の香が立ち上ってゆく様子を想像してみてください。台風が通り過ぎ、澄み切った空気のなかに、あらわれる霧が、内省へと誘うことを象徴しているかのようのです。
そして、秋から冬へと、うつろってゆく精神性。
枯れてゆくのか?
それが、成長なのか?
今後の詞にも期待が高まってきますね。
*
新たな発見を求め、しっとりと落ち着いた霧の水分を観察してゆくポイントとは、どういうところでしょう。
水彩画を描いているときに、水をたっぷりと浸した筆で、ビビッドになりすぎた絵の具を洗い落としてゆく感覚に似ているのかもしれませんね。それによって深みや味わいを表現できるのです。
ピッチリとした分かりやすいものとは違う、
あいまいで奥行きのある、日常のなかにある“あわい”を
感覚してみる季節なのかもしれませんね。
うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。渓谷の
石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光りはうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇り日の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。
過ぎてゆく季節はうつくしいと。
きれいに老いてゆく人の姿はうつくしいと。
一体、ニュースとよばれる日々の破片が、
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。
長田弘氏は、別の本(奇跡‐ミラクル‐)のあとがきで
このようにも述べています。
—
奇跡というのは、めったに起きない稀有な出来事というのとは
ちがうと思う。
それは、存在していないものでさえ、
じつはすべて存在しているのだという感じ方をうながすような、
心の働きの端緒、いとぐちとなるもののことだと、わたしには思える。
日々にごくありふれた、むしろささやかな光景の中に、
わたし(たち)にとっての、取り換えのない人生の本質はひそんでいる。
それが物言わぬものらの声が、わたしにおしえてくれた「奇跡」の定義だ。
たとえば、小さな微笑みは「奇跡」である。
小さな微笑みが失われれば、世界はあたたかみを失うからだ。
世界というのは、おそらくそのような仕方でいつのときも
一人一人にとって存在してきたし、存在しているし、
存在してゆくだろうということを考える。
—
つまり、あなたにとっての奇跡というものは、あなたの目の前にあるもの、平凡なものが本当の奇跡なのかもしれませんね。
*
シュタイナーは、『死者の書 』という本のなかで
死者に対する愛情をもって眠ると、死者はそれをまるで美しい音楽のように聞き取ることができるという。そうなってくると、生者も死者もなく、一体となって世界を構成しているのだということを思い出せるだろう。
といっています。
死とは、恐れとか不安などと本来無縁のものであり、
平凡な日常にある、いきいきとした死生観を
やしなってゆくことが大切なのでしょうね。
*
シュタイナーさん
ありがとう
では、また
Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2024/09/08