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一節のコトバが ふさわしくかえる

第18週 8月4日〜8月10日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、みえない“贈り物”。コトバは一節にすぎない。自分自身がみえない衣服のようなものをまとうために、それを統合してゆくのだと促されます。理解が深まるよう、“唯識”に絡めて考察してまいります。

では、読み解いてまいりましょう。

  

R. ACHTZEHNTE WOCHE (4. AUGUST – 10. AUGUST [1912])

18.
Kann ich die Seele weiten
Dass sie sich selbst verbindet
Empfangnem Welten-Keimesworte?
Ich ahne, dass ich Kraft muss finden
Die Seele würdig zu gestalten
Zum Geisteskleide sich zu bilden.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912


  心を郭大できるのか?
  受けとったコトバの芽は一節にすぎない
  これでひらきを受け取ることができるだろうか?
  わたしは気韻をみいだせる予感がする
  その要素要素、カタチづくるコトバ
  みえない法衣ほうえをふさわしく縫いあげるのだ。
  
 



唯識

大乗仏教の基礎的なところに“唯識”という教えがあります。簡単に訳すことが許されない教えのようですが、いにしえから人間の心の構造を解明しようとした証として非常に勇気づけられる教えなのであります。

シュタイナーの考えを理解してゆくうえでも参考になりそうななので、今回は、そこから始めてみますね。

唯識とは、あえて簡潔にいうと、あなたや、あなたがみているあらゆる存在は、八種類の識【視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識・末那マナ識・阿頼耶アーラヤ識】によって、ただ、在る。という教えです。そして、あなたが外界に「在る」と思い込んでいるものは、すべて自分の内界で起きている現象なのです。認識と言語と存在の関係を的確に分解して、生きている世界は錯覚にほかならないことを明かしています。


さて、聞き慣れない阿頼耶識と末那識ですが、潜在意識と自我に近い意識と考えてもよさそうです。阿頼耶識は、一切を生み出す可能力を有した根源的な心。ここには、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識やアカシックレコードのような大いなるものの記憶も含めた情報が蓄えられています。

末那識は、いつも阿頼耶識にまとわりついて我に執着した心の働きをします。なので苦悩の根源でもあるのですが、これがあるからこそ欲求が生まれ、真理にも導かれるのかもしれません。心の奥底で何かを判断し、カラダが動かし、そしてまた阿頼耶識に情報が集まってくるといった意識の循環ができているというのです。

ですから、純然たる阿頼耶識を維持することと、あなたにとっての最高の認識や判断ができる末那識を成長させるのが、非常に大切になるわけです。


手をうてば、鯉は餌と聞き、鳥は逃げ、女中は茶と聞く、猿沢池

こんな短歌があります。
手をポンポンと打ったならば、鯉はエサがもらえると思って岸に泳ぎよってくるが、鳥は身に危険を感じて逃げていってしまう。一方、旅館の従業員は、お客さんがお茶をほしがっているのだと思う—。

「唯識入門」 多川俊映 著

これは、唯識の本拠地でもある興福寺の近くの猿沢池を舞台にし、手をうつひとつの音が、それぞれ受け取る側によって認識と行動が異なってくるのだ。ということを伝える例歌なのだそう。

たとえば、毎日みる同じ風景でも、その日の気分や体調によっても印象がかわってくるのは、だれしもが経験していることです。みているときに、自分の心が投影されているなどとは気づきません。でも、そのときどきの心の働きがそこに投影されているのです。

あなたの心こそが、ものごとをつくり上げ、
その状況を決定しているのです。

そして、心の働きによって知られた限りの世界に住んでいるのだ。
という教えなのですね。


種子しゅうじ


阿頼耶識には、あらゆる経験(未来や過去など時間を超越した)が意識によって“言語化”され種子しゅうじとして保存されるそうです。唯識では、「しゅし」ではなく「しゅうじ」と読まれるそうです。

この種子が成長してゆく際、あなたの認識によって影響をうけてしまうのですね。想いどうりにゆけば問題はないのですが…。気をつけなければならないのは、「~のはず」「~であるべき」という思い込みが強くなると、ついついそちらへと現実が心とともに向いてしまうことになるのです…。

そして、本質とは少しズレてしまい。想いとは違う現実をつくりだすことになってしまうのです。ですから、引き出された種子の可能性を見極め、いかに育てるのか?という心持ちと行動が大切なのです。



今週のシュタイナーのメッセージは
そのことを警告しているように感じました。

“気韻をみいだせる予感”
何か、自分の理想郷みたいなものがぼんやりとみえてきている時、
そこに至る種子の芽生えを与えられたまま、、ではなく
自分なりに要素要素を統合してゆかなければならない。


それらは、真理をたたえた美なのであろうか?

そのようなことはわかりません…

何が、わからないのか思考し行動すれば

コトバによって、また種子化される

そして、わかっていないことを知る

また、思考し行動する。


このサイクルをくりかえす。それによって智慧ちえという
認識力や判断力をえることができるようになるのかもしれませんね。


描く。
心を静寂にし
美しきものに気づく
そして、また描く。


そんなふうになりたいですね。




2024年8月夏モミジ





美しい思考


「嫌なことは、イヤ!」
嫌なことを肯定的にとらえるなんて、人として自然ではない!

もし、あなたがそう心で叫ぶのであれば。末那識から発せられる、あなたの気持ちとは裏腹に望まぬ誤解されたカタチで阿頼耶識にレコーディングされてしまう可能性があります…。

唯識を学び始めると、ポジティブ思考も凄いなと感心させられます。たとえば、ネガティブで否定的なコトバ使いを避ける。もし口にしてしまった場合は、必ず、ポジティブなコトバに言いかえる!といった習慣ですね。

「こんな嫌なことがあった」
「ひどい目に遭って、本当についていない」

でも
「うまくいかなくて良かったー」
「ひどい目に遭ったけど、おかげでうまくいきました」
など、

すぐにポジティブに言い換えるてみるというもの。

すでに、やっている方も多いかとは思います。思考が、すべて阿頼耶識に蓄積されるのであれば、ちょっとしたコトバ使いを気をつけることで、心のありようが、かわりますよね。



そして、ポジティブ思考に加えて、
“ビューティフル思考”の習慣はいかがでしょうか?

ひどく汚いものだなと感じるものでも、
とりあえず「美しいね」とつぶやいてみるのです。

どのようなものごとにも、なにか美しさが眠っているかもしれない。という眼で観察をすることで、さまざまな美と出会えるかもしれないからです。たとえば、小説家の安部公房さんは、ゴミばかりを撮影していたそうです。「写真は事実の記録ではないから」という名言も残しています。美を包摂し、さらなる根源的な探求の姿を学びたいものですね。

写真を撮るときは、何かを感じたら、とりあえずシャッターを押す。ただ、それだけ。後でみかえした時に、何かを発しているシーンから、「あぁ、これかもしれないなぁ」と感じられることが大切なのです。




唯識は、4世紀インドに現れた初期大乗仏教の一派によって唱えられたものです。この頃から、人類は、目にはみえない心の姿を入念に観察し、体系づけてきたなんてスゴいと思いませんか?

最近よく聞く、ネガティブであればネガティブへ、ポジティブであればポジティブへと思考が現実をつくっていくという話。おそらく、もう何百年も前から、実践されつづけているのかもしれませんね…。

そして、あなたの中には、まだ解明しきれていない阿頼耶識や末那識が、
みえないところで、息をするように作用していると考えると…。



自らの心に響くコトバをみつけ
大切にし、ポジティブに務めることで
豊かな心へと郭大していけるはずです。

素晴らしい体験や出会いの夏に
美しき心象をどんどんと蓄積してくださいませ。

そして、ひとつ
世界を表現してみる。



シュタイナーさん
ありがとう

では、また


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