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偶然を必然に変え 自分にかえろう

第19週 8月11日〜8月17日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、自分の内にある力を目覚めさせよ!成長させよ!という願いが伝わってくるメッセージです。一方、理解しにくい神秘的に授かったものという、漠然とした前提条件みたいなものについて考察してみました。

では、読み解いてまいりましょう。

  

S. NEUNZEHNTE WOCHE (11. AUGUST – 17. AUGUST [1912]).

19.
Geheimnisvoll das Neu-Empfang’ne
Mit der Erinnrung zu umschließen
Sei meines Strebens weitrer Sinn
Er soll erstarkend Eigenkräfte
In meinem Innern wecken
Und werdend mich mir selber geben.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912



  新たに神秘的に授かったものを
  記憶と包みこむことで

  努力のさらなる標となるだろう
  独自性を強めながら

  内にある力を目覚めさせ
  本来の自分に近づいてゆくだろう。
 


偶然と必然


あなたが生きている日常で、偶然は存在せず、すべてが必然でできているのだ。といわれたらどうでしょうか?神秘と偶然にみちたさまざまな奇跡的な出会いを、どのように理解したらよいのでしょうか?

この王国は人間の心のなかにあり、
そこで人間は物質の拘束からも、物活説のいつわりの隷従からも解放され、
ついに正真正銘の生き方ができるようになるであろう。

そのさい、彼を守っている諸制度は、人間が<王国>の臣民であると同時に創造者であることも認めて、そのもっとも比類なき、またもっとも貴重な本質のために奉仕してくれることになるに違いない。

これはおそらくユートピアであろう。

「偶然と必然」ジャック・モノー   

“すべてが必然でできている”という主張は、おそらく、あなたが持つイメージと共鳴する部分もあるかもしれませんし、同時に違和感も持たれるかもしれませんね。

たしかに、宇宙、生命、人生における出来事はすべてなにがしかの因果関係によって繋がっていて、それぞれの出来事が必然の結果として生じていると考えられます。しかし、偶然と感じるような出来事も、実は“偶然として感じられる必然”であるとしたらどうでしょう。

モノーが提唱する“王国”や“ユートピア”は、生命が響き合い、その持続性を保ち、共生している理想的な状態を指していると仮定します。そして心のなかという現実世界で、あなたが必然として、与えられた状況に適応しつつも、自らの本質からの選択や行動によって新たな可能性を探求し、自己を表現していくことが、この“王国”を実現するための鍵となるのです。

ここでは、人間は物理的な法則や既存の制度に縛られることなく、自らの本質に従って生きることができます。人間の内面的な自由と表現力の領域は、必然のなかに含まれるものとして、私たちはその必然のなかで、どう判断し選択し行動するかを知っているのです。

ただ、その必然に抗ってしまう。
ただ、抗うことも必然は織り込んでいる。

そして、生命のカタチは偶然に出来上がったのか、それとも必要に迫られてつくられたのかという答えは、いまだ決着はついていませんが(後述します)。観察しにくい、みえないものが、大きく関与しているのは間違えないと、わたしは勝手に確信してしまうのです。

偶然と必然が交錯する世界で、あなたが果たすべき役割は、与えられた状況に適応しつつも、自らの道を切り開き、独自の価値を表現することです。私たちの行動や選択は、必然的な連鎖のなかで一つの歯車として組み込まれるだけでありません。本質をみいだそうとすることで、その連鎖を越え、新たな進化が生み出されるチカラを持っています。

この観点から、この日常は、単なる必然の結果であると同時に、本質からの選択や行動によって新たにつくられたものでもあるのです。

だからこそ、偶然のようにみえる出来事に直面したときこそ、そのなかに隠された必然と、それに対する自らの自由な選択の可能性をみいだすべきなのですね。それが、私たちが生きる世界の本質であり、ユートピアの一端に触れる瞬間でもあるのです。


進化なんかしていない

進化について学校では、ダーウィンの“種の起源”で、自然選択説を教えられてきました。生物は常に環境に適応するように変化し、種が分岐して多様な種が生じるといったもの。そしてこの過程を生存競争、適者生存などの利己的なワードで理解してきました。そして、 DNA や遺伝の仕組みが明らかになるにつれ、変異によって生命は進化したのだということになっています。

しかし、アメリカなどでは、“創造論”を信じている人も多いとききます。生命や宇宙が超自然的な存在(多くの場合、神)によって直接的に創造されたとする教えです。聖書などの宗教的に記述された創造の物語をベースに、生命はそのままの形で創造されたと考えられ、種は変わらず固定的であるとしています。

時代が進んで、インテリジェント・デザイン(ID)という仮説も登場してきました。生命の複雑さや自然界の秩序は偶然ではなく、なんらかの知的存在によって設計されたものであると主張する理論ですね。

生命は、自然選択や突然変異だけでは説明できないほどの複雑さがあるとし、それを知的な設計者の存在に結びつけます。IDは、進化のプロセスは肯定しつつ、進化の背後に知的な意図があると主張しているわけです。

このように、創造論、進化論、IDと、生命の起源とその多様性を説明するアプローチは、時代とともに、それぞれであり決着はしていないのですね。あなたは生命の起源についてどのように考えますか?



さて、ここまで読んでいただき、あなたの本質を考えるときに、どの方向に向かうべきかというイメージが浮かんできましたか?

時代的によって、さまざまな仮説に翻弄されているように感じるかもしれませんが、どの仮説を信じるにせよ、生命の起源や本質を掘り下げ、自分自身の考えを持つことが求められているのは変わらないように感じます。




彼方に刻まれた記憶の粒子が輝くときその始まりを問う。

どこから来たのか、この生命いのちは?

土のなかから芽吹く種、
その根はどこへと伸びていくのか?

風に揺れる木々の囁き、水の深淵に潜む静寂
その音に耳を澄ませる。
なにのために生まれ、どこへ向かうのか、この旅路は?

答えは一つではなく、道は無限にわかれている
選ばれた、一歩一歩は、

表現に変わる。





2024年8月葉に貯まった水





生命いのちとしての自分


“偶然と必然”について書いてきました、神秘的なものに左右されて新たなイメージと出会う偶然(=必然)が与えられているのですね。

おそらく、自己成長を促す栄養素であるコトバや感覚によって、その意味と経験と、これから体験するであろう事柄と照らし合わせて、あなたの自己成長につなげてゆくように!ということでしょう。

そのときに、自我の殻をやぶり
生命いのちとしての自分を独自性のある表現をもって気づき
自我を書き換えてみてください。

というのが今週のメッセージのようですね。
なんか急に難しく感じられるかもしれませんね…

でも、まず基本は、いままでどうり感覚することからです。それにプラスアルファーで少し自分と本質について思考してみてください!ということだと思います。



夢をみました。

夏の夜。石造りの倉庫で、ダンサー達と舞台をつくっていました。わたしはおどりに合わせて空間を演出する役割でこのプロジェクトに参加しているというシーン。よく出てくるパラレルワールドでの出来事です。

古い年期の入ったひんやりとしたコンクリートの上に座り、仲間達とあーだこーだと意見を交わしています。“2001年宇宙の旅”のような、生命の進化を、カラダでいかに表現するかについて、熱く対話をしている場面でした。



「私たちは猿から進化したのではない!」

ダンサーがいいました。


「じゃあ、なにから、進化したの?」

当然の質問です。




「水から…」



みなが沈黙しました。



そして、息苦しい沈黙のなか、
すっと、発言者が立ち上がりました。



そのビジョンをカラダにうつし、
静かにおどりだしたのです。




あなたが今まで経験してきた出来事、そのすべてがあなたをカタチづくり、方向付けてきたとしたら、それは偶然でしょうか?

人がどのように成長し、変化していくのか、そのプロセスを探る中で、偶然のように見える体験がどのように必然に転じるのかを考えてみましょう。

そして、そのとき、本質がどのように働いていたのか?

あなたの軌跡を振りかえり、そこに隠れた意味をみいだすこと。
これもとても重要ですね。



シュタイナーさん
ありがとう

では、また


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