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結局、構造化されてしまう

アートのめちゃくちゃは、構造化される。

どうしても、展覧会までに作品が間に合わない、なにかいい材料がないものか、おっ、ここにある陶器は、なんとなく神聖な泉にみえるではないか、よし、もうしょうがないので、いちかばちか、自分ではつくっていないけど、サインをして、出品してしまえ。

アートは、そんな、めちゃくちゃなことを、脱構築といってもてはやしました、作品としての新たな意味を持つようになり、アートとしての形式や慣習を疑問視することで、枠組みを超えた新たな表現方法を開拓することに成功したのです。

脱構築は、アートにおいて矛盾や異質性を掘り下げ、新たな意味を生み出すことができますが、同時に、脱構築自体がふたたび新たな構造を生みだし、新たに解釈や意味をかきかえ、そして構造化してゆく、ということを繰り返しています。

他にも、わたしが好きな、フランシス・ベーコンの抽象的な人物像は、顔が歪み、不気味な雰囲気を醸し出しています。それは、ベーコンが人間の存在を描く上で、誰もが直面する矛盾や不条理を表現しているとされています。具体的には、自己の存在や目的を理解するためには、自己を超える何かに向かわなければならないという矛盾が構造化されていると解釈できます。

ジャクソン・ポロックのドリッピングもアトリエの床にたれた無秩序な絵の具の痕跡を絵画の主役におしあげ、あらたな構造化がなされたものとして評価されています。

そのように。めちゃくちゃな脱構築が構造化されるというところに現代美術の価値があったのだと考えられるわけです。

そして、ポストモダン以降は、現代社会のさまざまな現象に基づいていて、過剰な情報量、多様性や混沌性など社会的背景や文化的な要素が、アートにおける脱構築に拍車をかけています。

例えば、牛をぶったぎった作品など、

そうなると、単一の視点や立場からみることができなくなり、多角的なアプローチが必要となり、アイデンティティや価値観には、社会や文化に対する批判や問題提起が含まれていることがあり、社会的な議論や変革のきっかけを期待する行為へと発展してきたのです。

脱構築は、矛盾や異質性を掘り下げ、新たな意味や解釈を生み出すことができますが、同時に、ふたたび新たな構造を生みだすことをくりかえします。

時に、アーティスト自身の立場やプライベートな経験に基づく主観的な解釈や表現を行うため、一般的な自明性(正義感や道徳的)に基づく複雑な反応や評価をうけることもあったり、一時的な流行やトレンドとして扱われ、持つべき社会的な可能性が見失われることもあります。

そんな中で、アーティストは、もがいているのだ、ということを

ご理解いただけると幸いです。


では、また



本当に存在するのは構造である
What really exists is structure.
© 2023 Yuki KATANO

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