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なぜお祭りが必要なのか


1、一歩外に出る理由

8月、灼熱の日の丸が地上を熱帯にする季節。

それはSSS級のサウナ愛好家ですら嫌気が指すシーズンである。

室内で冷房をガンガン効かせないとなにか行動を起こそうとする気にもならない。

そんな中私は一歩外に出る。

なぜか?祭りがあるからである。

2、祭り

「祭り」、小さなころは綿菓子が食べられ、金魚すくいができ、宝釣りでエアガンをもらえたりして喜んでいた。

大人になった現在、今一度「祭り」というものを考えてみる。

自治会や町内会の数は年々減少し、苗字以外よくわかっていないオヤジのウンチクや武勇伝を聞く機会も減っている。

また外に散歩に出かけても、多くの人たちが町の風景や通りかかる人には目を向けず、デジタルデバイスとにらめっこしている。

核家族が増えて、親と子供だけで構成された家族も増えている。

田舎でも上記のことが傾向として強い。つまりそれは都市部に行けばより顕著な動向として見られるということである。

デジタル化や都市化は身の回りの複雑なタスクやコミュニケーションを効率化した一方で、隣人同士の関係性を希薄化し、コミニティにおける相互扶助的な側面を弱体化させたように思える。

ほどいてしまった靴紐をもう一度強く結びつけつのは容易ではない。

それは結びつけるという物理的な動作が難しいだけではなく、「紐が緩んでいる。このままではマズイ。」という共通認識を持つこと自体が一つの大きな壁となって道を塞いでいる。

その壁と瓦解する方法はないのか。

あるとすればそれは祭りではないのかと私は思う。

つまり地域の共同性を取り戻せるのは祝祭性であるということ。

3、祭りの中を歩く

地元で開催されている祭りの中を歩く。

お祭り特有の焼きそばや綿菓子などの食べ物と屋台で使われるプロパンガスに、夏の夜風と湿気が混ざった匂いが鼻孔を刺激する。

花柄の着物を着た若い女の子、仕事が終わり作業着を着たまま子供と歩くお父さん、出し物をするために楽器を抱えている地元の学生、多種多様な人たちがそこに集まっている。

性別、年齢、職業、肩書きがバラバラな人たちが一斉に集まるのは祭りだけだろう。

それに数歩歩くと人とぶつかってしまうその近接性により、普段スマホを見ながら歩いている人が、顔を上げて真正面を向いている。

つまり誰もが行き交う人や情景を目に映しながら歩いているのである。

数年前はそれが日常であったが、いつのまにか非日常になってしまったものを祭りの空間が再度呼び起こしてくれる。

「顔を合わせる」ことがこんなにも難しくなってしまった現代社会。

祭りはその人間の根源的な欲求を満たす場として、非常に貴重な機会を提供しているのかもしれない。

地域住民の交流の場であると同時に、商店や飲食店も活気づき経済的な効果もある。

また祭りは物理的な近接性だけではなく、その集団体験による影響により心理的な近接性も高まる。

つまり自己と他己の境界線を曖昧にすることで個々の存在は一体となる。

それは個人主義的な生活様式やイデオロギーを再考する機会を与え、共同体の一部である感覚を教えてくれる。

これにより地域全体が一体感を持ち、共同体としての意識が強まる。

地域の未来を見据え、祝祭性を通じて新たな価値観や文化を創造することも可能となる。

これらは現代社会における地域の共同性を取り戻すための鍵となるだろう。

4、おわりに

祭り(祝祭性)は現代社会における地域の共同性を取り戻すための強力な手段である。

スマホの画面に釘付けになっている私たちにとってそれは一種の処方薬なのかもしれない。

また持続可能な取り組みを通じて、祭り(祝祭性)を地域の重要な資源として活用し、地域全体が一体感を持って未来を築いていくことが求められる。

単なるイベントを超え、地域の共同性を取り戻すための鍵となるのだだから。



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