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経年変化はいつだって切ない

6.5

経年変化をつきつけられるといつだって切ないものだ。

例えば、SNSで「◯年前の投稿です!」と不意に突きつけられる、ファッションも表情も顔の陰影も(ハリですね)まるで違う自分。
実家でひさびさに出会う着実に歳を重ねる親族。
ライフステージの変わった友達。
見ると否が応でも切ない。

どこで聞いたんだったか、「八年経てばどんな写真も名作」という言葉が忘れられない。言い得て妙だ。八年前の光景はきっともう今は残っていない。経年変化は有無を言わさずノスタルジーでほろりとさせてくる。

そんな中、八年どころじゃなく変化を爆走してこちらを置き去りまくっていく存在が家の中心に鎮座している。赤子だ。

「いまだけですよ」はキラーワードだが、下手したら毎週えっこんなだっけ?なんか変わっちゃったね…になるのが赤子。

たとえば、生まれたての新生児の姿。あまりに一瞬で儚かった。

産まれたてホヤホヤで「この世界のことなんもわかりません!」な動物みたい。あまりにも原始。なにもかも小さいのに、かっぴらいた口はアンバランスに大きい。まだなんの感情も持たないため、目つきはつねに眉をしかめじとっとしておりどこか滑稽。

こういっちゃなんだがミルクを吸う姿はきまじめなカエルみたいで笑えて笑えて、新生児とはこんなに原始で無垢かわいい生き物だったのかと驚いたのだ。

それが気付けばたった一週間もすれば、赤子なりにちょっとだけこの世界にこなれていた。別の生き物になっていた。シンセイジからアカチャンになってた。そしてその変化スピードが数日数週間スパンで連続しつづけている。

「今日の〇〇ちゃん」に会えなくなるのがあまりにも早い!それが赤子。

毎日が切なく、ある意味ではノスタルジーを即効性でつくりだす。インスタントに切なさを毎日毎日味合わせてくれる。そんな存在これまでなかった。感情が追いつかない。

経年は誰にでも平等。それは事実。
だがその事実をあまりに重いパンチで爆速に爆裂に伝えてくる、それが子どもなのだ。

何が言いたいかというと、二ヶ月にして「みてね」がはかどりまくっており、エンドレスノスタルジー製造機になっている。素晴らしいサービスです。

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松下ゆき
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