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たとえ育児中に生産的になれなくても

子が生まれて2ヶ月半が経過した。

赤子の育児は3ヶ月がひとつめの区切りという雰囲気がある。そろそろ見えてきたころだ。ふりかえれば一瞬だったし短い、だけどあまりに濃密だったし過酷さもあったし、やっぱ、どうかんがえても、長かった。

ここまででわかったのは、生まれたての赤ちゃんの育児とは基本的には泣きゲーだということ。よく「赤ちゃんは泣くのが仕事」というが、それなら親は「泣くのを止める」のが基本業務である。つまり泣きの原因を推定し解消につとめるわけだ。

シンプルでは?わたしもそう思っていた時期もありました。

厄介なのは、泣きの解消ステップを進めたハズがアクシデントがちくいち発生しステップが全リセットされること。それが無限にそして頻繁に起きるのがデフォ仕様だということ。

具体的には飲ませたミルクめっちゃ吐いたりやっと寝かしつけたはずなのに一瞬で起きたりする。

漫画家うめ先生による「賽の河原ってむしろ子どもに振り回される親が作ったイメージなんじゃ?」とは言い得て妙だ。親が積み上げた石は無限に何度でも崩されるのだ!

まあ赤子側も生まれたての身体の初期設定は外界じゃなく胎内に最適化されてるのでもうこれはしょうがないのだ。

とはいえ永遠に赤子の世話を行きつ戻りつつするのがデフォで気づいたらそろそろ寝ないとという時間になる毎日の繰り返しになるのがこの期間…。メンタルがダウナーな袋小路に入ってしまうこともしばしばだった。

なにしろ社会人人生は「生産性をあげよう!」「生産的な人であろう!」と掲げられ、それを良しとする営みだった。

だがしかし!生産的になどなりようもないのだ。そもそもなにかを成し遂げるというのがいちいちままならないのだから。食事やスキンケアや読書すらどうしても片手間になる。

これまで目指してきたことが取り上げられてしまうのは人によってはアイデンティティの瓦解にすらなり得るかもしれない。

でも、この時間は、不思議な静けさもあった。

赤子の表情と反応にだけ向き合う。目の前の現象にだけ集中する。雑念の入り込む余地がなく、ひとりの人間の観察と反応にフォーカスする。相手の変化も、成長も、ままならなさも、純度高く迫ってくる。

ある種のマインドフルネスのようで、時の流れ方が違う小部屋にいるみたいな気分だった。

自分がこれまで生きてきた世界とは別の価値軸なのは違いない。なにもかも達成・生産するのはままならない。けど、でもじつはこの営みが世界の大きな一面なのがまちがいなくて、これまで生きてきたフィールドこそが、むしろ一面にすぎなかったんだとも感じた。

この、誰かと向き合うことに濃密に集中し通じ合えた期間があったという記憶は、のちのちのいつか、自分を救ってくれるものになるかもしれない。
いつかくる身近な人たちとの別れや、いろんなことができなくなる時。それによる孤独。その孤独は自分を殺すかもしれないけど、そのときはこの思い出が自分を生かすのかもしれない。

人生の中で、こういった期間があってよかったと思うし、想像力の引き出しが増えた。寄せては返す波のように時期がうつりかわる人生、それが自分の奥行きを増すんじゃないかとも思う。


最近は、明らかに子が「わたしのことめっちゃ好きだな!」というニッコニコを見せるようになってきた。こんなにベタベタに人に好かれる期間はきっと一瞬だ。ひとときのベタベタ蜜月を味わおう。

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松下ゆき
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