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フレディ・マーキュリーの壮絶な「ファンにさせ力」について

ピースオブケイクに入社してしばしば考えるようになったことがある。

クリエイターにとって「ファン」は必要不可欠な存在だ。ファンが作品を追いかけてくれること自体が制作モチベーションを折らさずに保ってくれるし、作品を求め、ときにお金をおとしてくれるのもファンだ。
「いち読者」を「ファン」に変える力をもつのはどんなクリエイターだろう?

一つの答えがこれである。

フレディ・マーキュリーの人生を描いた映画ボヘミアン・ラプソディが絶賛上映中だ。
私も観て、フレディの「ファンにしちゃう力」には圧倒的なものを感じた。
ベースになる超人的カリスマ性に、サブリミナルのように繰り出される「エモみ」つまり共感。カリスマ性メインに共感を添えて。
これが「ファンにしちゃう力」のひとつの完成形であることは間違いない。

(ここから映画のネタバレを含むので「やばい」と思った箇所は目を細めて読んでほしい)

フレディ・マーキュリーはいうまでもなくムチャクチャすごい。
ボヘミアン・ラプソディの中での彼のカリスマ性描写の畳み掛けは「は〜ほんまかっこいいですね」とアホみたいに口をあけて見るしかないレベルだ。駆け出しのQUEENはその音楽性でレコード会社に見出され、世界的スターへの階段をかけあがる。ステージパフォーマンスも圧巻だ。これだけで一見の価値がある。

ただし、「ヤバイすごい」で終わらないのがフレディ氏の一味違うところだ。

フレディ氏はかなりの頻度で挫折して悩みに悩みまくる。その悩みが我々にも共感可能なものというのがキモなのである。なんというか、「人間っぽすぎ」てエモさが臨海突破なのだ。
持って生まれたセクシュアリティが理由で妻に振られ、孤独感に苛まれては家庭もちのバンドメンバーと自分を比べて凹み、テンパった結果参謀にはつけ込まれ、バンドメンバーには呆れられ。。。あーーつらい。さみしい。

「超カリスマでかっこいいフレディだけど、いろんな思いをしてきたんだな、、、わかるよ、フレディ、、、泣」

この状態こそが、「ファンにしちゃう力」最強の状態なのでは、ということである。
「かけ離れた存在」に「共感できる・身近に感じる」がかけ合わさった瞬間に、好感度って一気に爆アゲするのだ。

これは他の例にも当てはまる。

まずはみんな大好きキアヌ・リーブスだ。
キアヌ・リーブスは言わずと知れたマトリックスなどを代表するハリウッドスターだ。しかし、彼がただの「イケメンのセレブ」から「俺たちのキアヌ」と化したのは、なぜかヨレヨレで公園のベンチで打ちひしがれるプライベートショットがパパラッチされてからである。
しかも一度ではない。本当に何があったんだ。

「残念な美人」という概念もこれに当てはまると思う。
美人は本来デフォルトで「高嶺の花」「手の届かない存在」だが、「残念さ」要素が加わることで、なんだか「同じ目線に降りてきた」感があって一気に親しみと好感があがるという現象が起きる。
(というか、美人にとってみれば「残念さ」をかけあわさないと「なんかいけすかねえ」という理不尽なイチャもんをつけられがちな可能性があるので、美人たちにはねぎらいの言葉をかけたい)

ただし、彼らが9割カリスマ1割共感くらいで成り立ってるのに対してフレディ氏は少なくとも映画の中ではカリスマ:共感がもはやイーブンくらいに迫ってきており、恐るべき勢いで「ファン」にさせにかかってくるのが実に壮絶である。
好き(強制)

というわけで、「意図せず神格化されすぎて困っています」「ただのカリスマから一皮剥けたいんです」という方は、勇気を出してヨレヨレでパパラッチされたり人間っぽいエモみを見せつけていくと効果的なのではと思うので、ぜひ挑戦してほしい。

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松下ゆき
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