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「繋がりたいけれど、繋がれたくはない」

「ガーデン」千早茜
(2022年2月25日読了)


小学校6年生までとある発展途上国で過ごした羽野、
けして豊かとは言えない暮らしの中で
自宅の美しい庭が彼を支えていた。
日本に帰国後も、
植物とのつながりをもとめ、自宅に花を囲っている。
編集者として働きつつ、
女性との関わりを持つものの、
深い関係を築けない。

繋がりたいけれど、繋がれたくはない

人はなぜ他人とわかり合おうとするのだろうか。
どれだけ理解しようとしても、
完全に理解することはできないのに。
羽野の苦悩と共に、
人との関わりってなんだろうと考えさせられる作品。

文中にはたくさんのお花が出てきて、
一つ一つが素敵な表現によって
香ってくるような描写も魅力的。

共感するということ

人に悩みを打ち明けると、
「わかるよ」ということばが返ってくることがある。
自分もそう返すこともある。

だけど、時々思うのだ、なにがわかるのだろう?

私は昔から、
長距離走をしている時に
応援されるのが嫌いな子供だった。
「がんばれ」と言われるたび、
走ってもいないあなたにこの苦しみはわからないだろう
と思う嫌な子供だったのである。

長距離が得意な人もいるし、
苦手な人もいる。
そもそも、長距離走で辛いと思うほど全力で走るのか
それを選ぶのも人それぞれである。
なのに1番速くゴールに辿り着いた子が
1番がんばったと言われる。

50%の力で走った1番と100%の力で走ったビリ
どちらががんばったと言えるのだろうか、


目に見えるもの、
わたしが口に出すこと、
そこから相手が感じること、
いろいろなものを使ってつくりあげる「理解」は、
はたしてどれくらい
「本当のわたし」と一致するのだろう。

人と分かり合うことなんて、
そもそも不可能なのではないか。
なのになぜ、
人は大事な人を理解したいと思い、
自分を理解してほしい、と思うのだろうか。

人を理解するということ


この作品の主人公である羽野は、
こんなことをぐるぐる考えている私と限りなく近い思考を持っていると思った。

自己肯定は自分でしなきゃ。
他人に求めたら駄目だよ。苦しいだけだ。

「自分の機嫌は自分で取る」
をモットーに掲げる私にとって、
このセリフは自分を肯定されているようで嬉しかった。

大矛盾である。

でも、
「一人でも生きていけそうだよね」
と言われがちな私にとって、
同じような思考の存在は
誰とも理解し合えないんじゃないかという恐怖からの
救いだと思った。

どうして自分の機嫌を自分でとって、
苦悩を自分で消化して、
人を頼ることを苦手に思っていることが、
「一人で生きていけそう」
になるんだろう。
他人に求めるのが苦しいだけなのに。

人とは繋がりたいけれど、
「わかって」という言葉で
人と繋がれるのは嫌なのだ。


人が一人なのも、さびしいのも当たり前のことだ。
それを不幸と思わなければいいだけのことだと思う。

みんながさびしいことを前提にして、
それでも一人でいることを選択することが
もっと楽にできたらいいのに、と思う。

「なんで頼ってくれないの?さみしくないの?」
さみしくないことなどない、
だけど私にとって
頼ることとさみしさの解消はセットではないのだ。

頼って己を開示しても、
相手に伝わる「わたし」は、
わたしのなかの「わたし」とは遠く離れているのだから

一生懸命伝えたとしても、相手のことが好きでも、
理解されないとわかる方がよっぽど苦しい。

自分の中で苦しさを消化するために
辛い時こそ一人になる時間だと私は思う。

そんなぐるぐるとした葛藤を
私だけじゃないんだ、と
少し肩から下ろさせてくれる
そんな作品でした。

(なんだかすっごく病んでるみたいになってしまった)

読んでほしい人

・一人でいるのが好きな人
・人間関係って難しいなと思う人
・冷めてるねと言われたことがある人
・花が好きな人

読みながらこの花はどんな花だろう、
と調べる時間も楽しい。
感想のせいですごく重い作品のようになっていますが、
素敵な作品です。

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