保育園で私に芽生えたのは「自己肯定感」ではなく「自己効力感」だけだった。すこやかな「自己肯定感」を育むために、娘に伝えたいこと。
それは年長さんの時。
カラッと晴れた天気の良い日だった。
毎日ある外遊びの中でもアクティビティが決まっている日があって、その日は「鉄棒」だった。
その頃、鉄棒の中で一番難しいとされていた技は「逆上がり」で、この日も確か補助台を使ったりしながらみんなで練習していた。
お腹に精一杯力を込めて、絶対に回るぞ!という強い意志を持って、一心不乱に練習していた自分を思い出す。手がどれだけ痛くなっても、豆だらけでも、私はできるようになりたかった。
今思えばなぜそんなに?とも感じるけれど、すべてにおいて負けず嫌いな性格だった。
そして、そんな練習の甲斐あってか、私はクラスで一番最初に「逆上がり」ができるようになった。
その日、保育園の先生は「いっぱい練習していたもんね」「すごいね」と誉めてくれた。その通りだと思った。
そしてみんなの前で披露する場を設けてくれた。みんなが拍手してくれた。
その時だった。私の中で、キラキラした感情と一緒に、ドス黒いある感情が芽生えてしまったのだ。
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拍手されながらみんなを見渡す。
こんなにたくさんのみんながチャレンジする中、自分だけができたという「特別感」。
みんなの前で褒められるという「多幸感」。
努力したからできたのだという「自己効力感」。
そして、それと同時に、お腹の底から湧き出る「私の方ができる」「私だけできる」というとめどない「優越感」を確かに感じていた。
「他の人は練習せずに遊んでいた」「努力もせずに遊んでいる人たちとは違う」そんな「人を見下す感情」も一緒に芽生えてしまった。
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もちろんこの感情が芽生えたからと言って、あからさまに優越感に浸ったり、他者を蔑む発言はしなかった。
でもそれは、良心からのそれではなく、「あえて黒い感情は見せない方が、より自分の価値が上がる」と認知していたからだった。
私は、自分の黒い感情に自覚的でありながら、戦略的にそれを隠して「みんなに平等で、優しくて、人の気持ちがわかる子供」を演じきってしまった。
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結局その後も、小学校、中学校、高校、と同じようなスタイルで「努力→結果→他者からの賞賛」というサイクルを回し続けた。
「他者からの賞賛」というご褒美をもらいやすくするために、賞賛されやすいことをがんばったり、賞賛されやすい言動もたくさんしてきた。
結果的に、多くの子供たちが「苦手」と感じる「勉強」を頑張ってこれた。育み続けた「自己効力感」のおかげで、E判定だった阪大にも合格できたし、就活も思い通りだった。
「賞賛されやすい言動」のおかげで、生きていく上で、あらゆることがスムーズだった。
だけど、と思う。
本当にこのサイクルでしか、この結果は得られなかったのだろうかと。
逆上がりを練習していたあの時、最初は「できないことを、できるようになりたい」というとてもシンプルな感情で、私は努力したように思う。
「他者」ではなく「自分」に対して負けず嫌いだったのだと思う。
だけど、その結果、「他者からの賞賛」というもっとわかりやすくて、もっと直接的で、もっと気持ちのよいものを手に入れてしまった。
そして、その歪んでしまった何かを、周りの大人は残念ながら気づいてくれなかった。
両親は、その歪みをさらに加速させた。
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この鉄棒のエピソードは、実は、母からもらった私の母子手帳に書かれていたことで思い出した。
月齢ごとのコメント欄に「クラスで一人だけ逆上がりができます」と、それだけ書かれていた。
そこに他意はなかっただろうし、あまり母子手帳を書いていない母が書いたのだから、相当嬉しかったのだとも思う。
結果的に、この鉄棒エピソードは、当然その日家に帰った後も褒められて、その辺りから母は「ゆきちゃんはすごい」「他の子よりできる」「かしこい」といった褒め方をするようになった。
幼児期から児童期への移行期間、評価しやすい軸もたくさん出てくるし、評価しやすい環境へと移行するから、もちろん誰しもが陥りやすい傾向であることもわかる。
私も今、母になったからわかる。
我が子の成長がうれしいことも、誰よりも早く何かを習得することの特別感も。
だけど、と思う。
それは「一人だけできる」からすごいのではなく、「努力をして、できなかったことをできるようになったから」すごいのだと。
理性ある大人として、母として、その自分の気持ちよさを、自分の中にだけ留めておいてほしかった。
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さて。
私は今、母になって、同じく、幼児期の娘を育てている。
彼女もいつか、私のように「優越感」という気持ちよさに気づく日がくるだろう。もちろんその感情を感じるのは悪ではない。
だけど、どうかその時に、「他の人よりできたかどうか」という優劣だけでない軸が、この世界にはたくさんあることを知ってほしいと思う。
そして、どうしても比べてしまう時が来ても、それは表面的にわかりやすい部分だけの話であって、その比較は自分の本当の価値を左右するものではないと、心から信じてほしい。
この、わかりやすくジャッジされやすい世界で、どうか、自分のありのままを肯定しながら、自分の価値を自分で決められる強さを身につけてほしい。
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そんなことを言いながらも、私自身、受け継いでしまった負の感情を断ち切れない瞬間だってたくさんある。
わかりやすい比較に陥りそうになることも多い。サラッと「〇〇ちゃん<だけ>できてたじゃん!すご!」とか言っちゃう時がある。
だから、私は人一倍、娘と対峙する時に言葉を選ぶようにしているし、間違ってしまったら、修正するようにしている。
間違った褒め方をしてしまった時、必ずあとで「さっきはママ間違っちゃった。〇〇ちゃん<だけ>できてるからすごいんじゃなくて、ママはまだできないと思ってたことが、〇〇ちゃんができたからびっくりしたし、すごいなぁって思ったんだ」と言い直すようにしている。
間違ったらちゃんと訂正する。
まだわかっていないかもしれないけれど、はぐらかさずにちゃんと説明する。
これだけは守っていきたい。
以下、参考まで。