牛すじのワイン煮込み

今年のお正月の頃だったでしょうかちょうどおせちにも飽きた頃、牛すじのワイン煮込みを作りました。

理由はただ牛すじが安かった、それだけなのですが、とっても美味しくできたんです!

私は牛すじ煮込みの作り方を知らなかったので、すべて適当でした。今でもどうやって作ったか全く覚えていません。それがあまりにおいしかったのでその後、何回も牛すじ煮込みを作るのですが、どうしても同じようにはなりません。

何の分野にしても、私たちの生活の中で何か自分が自然にやったんだけれども、どうやったかわからない、あまりにも自然すぎて、、でも結果はすごく良かった、という経験をお持ちの方は多いと思います。

特に体を動かすことに関してはこの経験の多い方もいると思います。

野球やってる時、サッカーやってる時、何か自然に体が動いてすごくうまくいくということがあります。私はアメリカの時代、ピストルが好きでよく練習しに行っていましたが、一生懸命狙っても的当たらない時と、それほど意識していなくても、体が自動的に動いて、何の不自然さもなく、ターゲットに弾が当たることがあります。

実は音楽も似たところがあります。すごく良い演奏ができる時、自分が何を演奏しているかと言う意識より、体が自然に動いている、勝手に動いていると言うような感覚の方が強いいのです。

この状態ってよく考えてみると、能動的か受動的かと言うと、おそらく受動的になるんだと思います。

いつの頃でしょうか、小学生頃でしょうか、私は何かの授業で能動的が良い、美徳だ、受動的=人任せで主体性がないというようなことを教えられた気がします。それ以来、どこか受動的という言葉に否定的な意味を何か持っていると思います。

でも、受動的ってほんとにそんなに悪いものでしょうか?

朝起きて、昨日も忙しくて、とっても疲れていて、さぁ、今日はあれがあって、これがあって、と考えている時、頭の中では知らず知らずに今日のスケジュールに対する準備が行われています。これは今日のスケジュールに対するめちゃくちゃ能動的な姿勢です。でもその後きっと人は「はあー、、」ってため息つきます。

でもこれが受動態だったらどうなるでしょう?自分に向かってくるもの受け身で受け取れればいいんです。受け身であると言う事は準備が必要ありません。ですので「はあー、、」とはなりません。すると、当然ストレスも軽減されます。

面白いことに、受動的な姿勢への否定的な感覚は、私だけでなく若い世代も同じような感覚を持っているようです。私が教える大学の学生と話した時、ある学生が言いました「受動的って何かダメっていう感覚あります。でもそれって日本の文化じゃないですか?」、、、もしかしてそうかもしれません。それがどうあれ、能動的と受動的を比べると、受動的である方がストレスは軽減されると思います。そして、ストレスが軽減されれば、新しい世界が見えるのではないでしょうか?

ちょっと受動的になってみませんか?

これって決して悪いことではありません。

これは実は、私が音楽から学んでいることです。音は向こうから私たちの耳に入ってきて、それを感じるためには、受動的である以外、方法はありませんから!

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