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探究とは、自己破壊である。そのためには、過去の「とらわれ」を捨てるのではなく「再解釈」する

人は「探究テーマ」を言語化することで、自分と世界の"新しいつながりかた"を探ることができる。

こうした探究的な生き方は、才能を活かしたキャリア形成の現代的な手段ともいえるけど、本質的には自分の喜怒哀楽のツボを追求する究極の娯楽であり、自分の抑圧へのケアでもある。そんな議論をしてきました。

そんな中、ふと手に取った千葉雅也さん著の『勉強の哲学』が、探究の意義や方法について別の角度から解像度を高めてくれる名著で、非常に参考になりました。

ある領域を深く学ぶと、人はノリが悪くなって、"キモいヤツ"になる

この本の趣旨を、あくまでイントロダクション程度にまとめると、

人は、周りのノリになんとなく合わせて生きている。深く勉強するとは、ノリが悪くなって、キモくなることである。新しい言語を獲得して、新しいノリに引っ越すこと。

アイロニー(ツッコミ)とユーモア(ボケ)という2つの技術を駆使することで、自分の「享楽的なこだわり」を発見し、それ自体を変えていくこと。勉強とは、自己破壊である。

…というような話。

環境に暗黙的に順応している状態を「ノリ」として、そこから自由になる過程を「キモくなる」としているのは言い得て妙だと思いました。

私自身も大学院でワークショップデザインについて探究を深めて、さまざまな知識を学ぶほどに「一般的な言葉遣い」から離れていって、日常会話に無自覚に「認知過程」とか「情動」とか「有意に違うね」とか口走ってしまって、キモいヤツになっていった自覚がありました。しかしこれこそが新しいノリに引っ越すための通過儀礼で、自分の「享楽」を追求するために不可欠だということです。

なるほどたしかに、探究的なキャリア観にシフトしていく最初のハードルは、キャリアの初期になんとなく獲得した「世界とのそれなりに心地よい繋がりかた(周囲に期待される役割)」が、ノリとして固定化されている点にあるかもしれない。

この癒着を剥がすことが探究の第一歩であり、それができないまま長く放置すると、中年期のアイデンティティ・クライシス、そして『仕事の辞め方』のような大袈裟なリセット論になるんだろうとも思いました。

フカボリ(ツッコミ)とユサブリ(ボケ)で、探究の循環を回す

また、拙著『問いかけの作法』では、人と組織のポテンシャルが解放されていく過程を「こだわりのフカボリ」と「とらわれのユサブリ」の循環によって単純化しましたが、これが千葉のアイロニー(ツッコミ)とユーモア(ボケ)という思考技術とも重なりました。

探究とは、自分の"こだわり"を尊重して育てながらも
自分の"とらわれ"を疑い、問い直し続けることである

問いかけの作法を、探究における「自問自答の技術」として読み替えると、「探究の作法」としてアップデート可能かもしれません。

探究のサイクルを止めないためには、フカボリとユサブリを使い分ける

探究の第一歩がなんとなく合わせているノリとの癒着を剥がすことなのであれば、それは自分が繰り返している、順応している空気・慣習としての「とらわれ」にユサブリをかけるところから始まります。

なんとなく選んだ学部、なんとなく選んだ会社、なんとなく身につけた職能、なんとなく周りに合わせてやっていること、なんとなく繰り返している習慣。これらが仮に「とらわれ」だとしたときに、その外側に自分の新しい「こだわり」の可能性はないだろうか?と、自問自答してみる。

そうして仮説として見つけた「こだわり(仮)」を「探究テーマ」として定めて、今度は徹底してそこに自分を没入させて、フカボリをしていく。そんな探究の過程に、『問いかけの作法』の質問のパターンは活用できるかもしれません。

探究の作法として捉え直すと、このモードにも発展可能性が見えてきます

探究とは、自分のとらわれを再解釈して「じつは…だった」と訂正すること

このように、探究とは自問自答を繰り返しながら、自分と世界の"癒着"に都度向き合って、"バカ"を見つめなが自己破壊・再構築していく過程ととらえることができます。

しかしこれは、過去の「とらわれ」を捨て去って「リセット」するということではありません。この千葉の勉強の哲学は、東浩紀の訂正可能性の議論を重ねて読むと、理解が深まります。東によれば、訂正する力とは、過去を遡行的に再解釈しながら新しい一貫性をつくり直すことだといいます。この「過去の再解釈」というのが、探究による自己破壊の本質です。

私自身の探究キャリアを振り返ると、20代の頃は「ワークショップデザインこそが、自分の転職だ」「一生ワークショップで生きていければ幸福だ」と確信していましたが、28歳で『ワークショップデザイン論』を出版して、30歳で博士号を取得した頃には、次第に「飽き」が生じてきて、あらゆる物事をワークショップで解決することは、私にとって「とらわれ」になりつつありました。ワークショップのなかに「享楽的なこだわり」を追求した結果、ワークショップが自分に癒着してしまったというわけです。

私はその後、新たな「こだわり」として探究テーマを「問い」にシフトさせて、35歳で『問いのデザイン』を出版。そして40歳を目前とした現在は、「冒険的世界観の組織づくり」にテーマチェンジして、12月には集大成としての単著『冒険する組織のつくりかた』の出版が控えています。いまはMIMIGURIの経営や大企業の組織づくりのコンサルティングが主な実践のフィールドで、20代に熱狂していた「ワークショップ」を実施する機会はほとんど消失してしまいました。

このように、約5年単位で探究テーマをシフトさせながら、自己破壊的に「とらわれ」を問い直して、「新しいこだわり」を再構築してきたわけです。これだけみると過去のとらわれは棄却されているようにも見えますが、実際には探究テーマの次元が変わると、過去の探究テーマの意味が別の視点から再解釈され、次のテーマに昇華されて取り込まれいく感覚がありました。

安斎の探究テーマの変遷。とらわれへのメタ認知が、次のこだわりに昇華している。

東は『訂正する力』において、訂正とは「じつは…だった」という構文で遡行的に過去に一貫性を見出すことだと述べていますが、まさに、

  • 「自分はワークショップをデザインしていたのではなくて、じつはずっと問いをデザインしていたのだ」

  • 「自分は問い(Question)を探究してきたけれど、じつは冒険(Quest)のための道具を磨いていたのだ」

といった具合に、意味づけを変えながら、非連続的にテーマがスパイラルアップしてきた感覚です。

孫悟空もまた、キャリアを通して自分を訂正し続けている。
この副音声解説はVoicyで👉 https://voicy.jp/channel/4331/1235407

12月に新刊『冒険する組織のつくりかた』を世に出すことができたら、その次には「探究の技法」そのものを書籍にまとめたいと思っています。その進捗はVoicyチャンネル「安斎勇樹の冒険のヒント」で随時発信していきますので、ぜひフォローしてお聴きください。


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