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キャリア目標を捨て、「探究テーマ」を持とう─究極の娯楽でありケアである「探究」という営み

"将来の目標"を明確にして、そのために必要なスキルを主体的に身に着けていこう──こうしたキャリアデザインの考え方は、一般的に多くの人に浸透しているものだと思います。しかし、不確実性の高い現代において、思い描いた通りのキャリアを歩むことは、いったいどの程度可能なのでしょうか。また、そもそも自分の「将来やりたいこと」や「数年後のありたい姿」がわからないと、悩んでいる人も少なくないと思います。

そうした現代において重要なのは、キャリア目標を捨て、「探究テーマ」を持つことなのではないか。従来の"中長期のキャリア目標を設定し、「選択と集中」でその達成を目指す"考え方ではなく、「いま自分が関心を向けていること」を「探究テーマ」として掲げて、「分散と修繕」の考え方のもと有機的にキャリアをつくっていく方が、不確実性の高い現代のキャリアデザインとして有効なのではないか──そんな話を、最近よくVoicyXで投稿しているのですが、非常に大きな反響をいただいています。おそらく多くの人が、「キャリア目標」をベースとしたバックキャスティング型のキャリアデザインに違和感や限界を感じていたからでしょう。

ただ一方で、「探究」が単なるキャリアデザインの戦術的な手段に閉じてしまうのは、それはそれでもったいないような感覚もあります。たしかに「探究」は、キャリアの構築に大きな恩恵をもたらします。しかし、キャリアデザイン上のメリットに留まらない、より大きな意味もあるのです。

そこで本記事では、「探究」が人生にもたらす意義の正体について言語化してみたいと思います。

本記事のVoicyの副音声解説もあわせてご視聴ください。


「探究テーマ」を設定すると、世の中の見え方がガラリと変わる

「探究テーマ」とは、自分の興味関心に基づく「問い」のことです。疑問文の形式まで具体化されていることもあれば、コンセプトフレーズやキーワードレベルの場合もあるでしょう。

たとえば私の場合は、大学院生の頃までは博士論文の題目である「創発的コラボレーションを促すワークショップデザイン」、大学院を修了してからは「問いのデザイン」、そして現在は「冒険的世界観の経営・キャリア論」という探究テーマのもと、経営や研究などの日々の活動をおこなっています。

「探究テーマ」を設定すると、世の中のあらゆる情報が「探究」のヒントとして目に飛び込んでくるようになります。

たとえば、私が「ワークショップデザイン」の探究をしていた頃は、バラエティ番組を観ながら、「このワークはシンプルだけどすごく盛り上がるな」「このファシリテーションが上手だな」とワークショップのヒントを得ていましたし、「『問い』のデザイン」の探究をしていたときは、とにかく世の中の「問い」が気になって仕方なく、大喜利の「IPPONグランプリ」のお題を類型化したりしていました。

「冒険的世界観の経営・キャリア論」をテーマに探究をしている現在は、漫画『ONE PIECE』を読んでいると、「ルフィは1on1とかしないけど、どうやって冒険的組織をつくっているのだろう」「麦わらの一味のキャリアデザインはどうなっているのだろう」といった疑問が浮かんできたりします。

「赤いもの」を意識して街を歩くととたんにそれまで気付いていなかった郵便ポストの存在に気付くようになる現象を「カラーバス効果」などと言いますが、それと同様に、「探究テーマ」を持つことで何気ない情報が"探究の手がかり"として視界に飛び込んでくるようになり、日常が「発見」や「学び」に満ち溢れ、仕事や研究活動に活かされていくのです。

このプロセスは喜びに満ちていて、自分を律して退屈に耐えながら行われる反復トレーニング的な学びに比べて内発的に行われるため、結果として成長にもつながりやすい。

また、「探究テーマ」そのものやその探究の中で得られた気付きを積極的に外部に発信することで、「〇〇さん=◯◯の探究をしている人」という認知が生まれ、探究に関連した仕事が舞い込みやすくなります。

自分の好奇心の変遷をベースにキャリアを形成できるので飽きにくく、中長期的にモチベーションが保ちやすい。キャリアデザインの観点においても、「探究」のメリットは非常に大きいのです。

探究テーマは「レンズ」と「対象」のかけ合わせ

「探究」がどのようなものになるかは、「探究テーマ」の設定の仕方にかかっています。

大学の研究者も、研究テーマ(リサーチクエスチョン)の設定に心血を注ぎます。研究に慣れていない大学院生は、何度も何度も研究テーマを作り直しながら、納得のいくテーマを設定するまでに多くの時間を費やします。

それと同様に、人生の探究にかける時間の大半は、自分の「探究テーマ」について考えを巡らせる時間だといっても過言ではないでしょう。しかし本当に納得のいく「探究テーマ」を設定するまで走り出せないのでは、いつまでも探究をスタートできません。いったん暫定のテーマを立ててみて、探究を通して得られた違和感や手応えを踏まえて仮説をアップデートしていけばよいと思います。探究とは、自分の探究テーマを育て続けることでもあるからです。

さて、「自分の探究テーマは何だろう?」と考えたときに、思い浮かぶキーワードはなんでしょうか。もしかすると「組織」「人材育成」「まちづくり」「生成AI」など、領域的な「対象」が思い浮かぶ人が多いのではないかと思います。

たしかに興味・関心を向けられる「対象」の選定は重要で、絞り込み方によっては、それ自体が探究のアイデンティティになる場合もあるでしょう。私も大学院で最初に定めた「対象」は「ワークショップデザイン」で、それがしばらくのあいだ自分のアイデンティティを示していました。

ところが、大学の研究者をみていても、研究テーマの設定の仕方は多様です。前述したような特定の「対象」にこだわりがある人もいれば、意外に対象はなんでもよくて、それらをどのような「ものの見方」で捉えるのか。すなわち対象を捉える「レンズ」にアイデンティティがある研究者もいます。

探究テーマ設定の具体的な方法論についてはまた別の機会に詳しく解説したいと思いますが、ひとまず本記事では、探究テーマを「レンズ」と「対象」のかけ合わせで設定するという考え方を推奨しておきたいと思います。

探究テーマというと「対象」を思い浮かべがちだが、「レンズ」もまた重要

同じものを「対象」に探究している人であっても、それをどのような「レンズ(ものの見方)」で探究をするかによって、探究のプロセスや成果はまるで変わってきます。たとえば私の場合、探究の対象は「企業経営」や「組織づくり」ですが、それを捉えるレンズは大学院時代の学問的な専門性である「学習論」や、博士論文を通して身体化した「ワークショップデザイン」というレンズです。同じく「組織づくり」について経営学のレンズで組織を探究している人とは、まるで異なった景色が見えていて、結果としてアウトプットも別のものになる。そのレンズの違いゆえに経営学の前提となってきた「軍事的世界観」に違和感を持ち、独自の「冒険的世界観」という考え方を提唱して、いまはそれ自体が私の探究の「レンズ」になっています。

レンズは、その人がこれまでの人生で獲得してきた「どうしてもこういう視点で世の中を捉えてしまう」という考え方のクセであり、レンズにこそその人の個性が宿ります。したがって、「対象」に「レンズ」をかけ合わせることで、その人だけのオリジナルな探究テーマを設定することができるのです。

探究とは「自分と世界とのよりよい繋がり方」を模索する行為

自分オリジナルの「探究テーマ」に基づく探究は、キャリアデザインにおいても非常に有利であるわけですが、一方で最近感じているのは、「探究」は究極の「娯楽」なのではないか。つまり、「探究」は何かのための手段というよりも、それ自体が「人生を楽しく生きる」という目的に成り得るのではないか、ということです。なぜなら、「探究」とは、「自分と世界とのよりよい繋がり方」を模索する行為そのものだからです。

前提として、人間は、世界のことも自分のことも、ほとんどよくわかっていないものだと思っています

たとえば、私のような組織論やマネジメントを専門とする研究者であっても、自分の経営する組織では日々「わからないこと」が起きますし、まして専門外のことやいま世界で起こっていることとなると、ほとんど「わからないこと」だらけです。

また、自分自身のことも、わかっているようで案外わかっていないものです。たとえばかつて「自分は組織のリーダーには向いていない、個人でやっていく方が性に合っている」と豪語していた自分が、まさか数十名のベンチャー企業の代表になるとは思いもしませんでしたし、「人前で話すのが苦手」だった自分が、Voicyで毎朝配信をすることになるとは想像もつきませんでした。

つまり、未来の自分が何に関心を持っていて、自分の才能は何なのか、どうすれば自分で自分を楽しませてあげられるのかは、40年近く生きていてもほとんどわからないものなのです。

これは言わば、オープンワールドのRPGにおいて、"マップ探索率10%"みたいな状態です。そして、この広大な世界を楽しみながら遊ぶ上で重要なのが、暫定でもよいので自分の興味関心に基づく「探究テーマ」を設定し、自分と世界に関する理解を往復的に探る「探究」という営みなのです。

前述の通り、私は大学院に進学したときの最初の研究テーマとして、「ワークショップデザイン」を選びました。学部生時代に始めたワークショップを「面白い」と感じるようになり、これを研究してみたいと大学院に進んだわけです。しかし、実際に研究を進めていく中で、実はワークショップに100年以上の歴史があったことや、ワークショップが街づくりなどのトップダウン的に進められてきた領域におけるカウンターカルチャーとして生まれたことを知りました。

そしてそのとき、自分は「トップダウン型の権力によって抑圧されていたポテンシャルが、ワークショップのような場を通じて解放される瞬間に喜びを感じる」という、自分の根底にある趣向に関する深い気付きを得ることができました。自分の幼少期や青年期の体験とも結びついて、自分の「人生のツボ」を見つけたような感覚になったのです。そしてこの気付きは、現在組織を研究する際の「こだわり」にもつながっています。

つまり、当初はワークショップのことをよく知らないままに「なんとなく面白い」と感じていたわけですが、「ワークショップ」という対象を探究しながら世界に対する理解を深めたことで、「なぜ自分はワークショップに惹かれるのか」「自分は何に喜怒哀楽を感じるのか」「自分はどんな場をつくりたいと思っているのか」といった自分自身に対する理解も深まっていったのです。

こうして、自分と世界についての理解を往復的に探りながら、自分と世界のよりよい繋がり方の解像度を上げ、自分の"才能"を見つけていく──これこそが探究の意味であり、意義だと思うのです。

探究とは、自分を通して世界を理解すること。
そして世界を通して、自分を理解することでもある。

探究は「究極の娯楽」であり「ケア」である

そして、自分と世界の理解が深まり、そのよりよい繋がり方が見つけられた瞬間というのは、いわゆる"脳汁"がすさまじく出るものです。自分の好奇心の正体が明らかになって、「そういうことか!!」と自分と世界の解像度が急激に高まる。次なる衝動が生まれて、"次の探究"を始めたくてたまらなくなる。論理的に「探究」のメリットを説明することはできるものの、単にこの知的興奮の快楽に取り憑かれて、探究しているという側面もあるのです。

そういう意味で「探究」は、「究極の娯楽」でもあるのです。

また、前掲の図では「観察したい事象」や「解決したい課題」を対象の一例として上げていますが、「探究テーマ」を設定することで、自分がモヤモヤしたりイライラしたりするネガティブな対象についても、相対的に捉えられるようになります。

「探究テーマ」は、自分が目を背けたくなる世界と向き合って
それを克服するためのメディアにもなる

たとえば、私は昔から「カラオケ」が嫌いなのですが、歌うこと自体が嫌いなのではなく(むしろ好き)、カラオケのあの独特の空気感が苦手なのです。気心が知れた仲との場ならともかく、2次会や接待の場を持たせるための手段として強制的に展開される「歌合戦」の空間は、曲の選定や順番、聴き手としてのリアクションなどに暗黙のコードが走ります。その見えない空気のような慣習が抑圧的で、本来は創造的かつ主体的な表現行為である「歌うこと」が、儀礼的な「空気の読み合い」になりさがる。

ワークショップデザインの探究を通して、私は自分が「なぜカラオケが嫌いなのか」についてこのように言語化することができました。これは無自覚な過去の抑圧を相対化して、自分が大切にしていることを尊重する行為であり、紛れもなく自分に対する「ケア」だと言えます。

私は暗黙の慣習としてのルールの奴隷にはなりたくない。しかしゲームの規則としてのルールは、創造的に活用したい。探究によって自分の抑圧と好奇心の正体をそのように相対化することで、私はいま「組織のルールのデザイン」という新しい探究テーマに取り組むことができている。

「探究」とは、現代キャリアデザインの有効な手段であり、究極の娯楽であり、自分に対するケアでもあるのです。



Voicyチャンネル「安斎勇樹の冒険のヒント」では、新刊の執筆や研究の進捗はもちろん、組織づくり、マネジメントから、キャリアデザイン、探究論まで、冒険の時代に創造的に働くためのヒントを探究していきます。毎朝約15分の放送を毎日配信しています。ぜひVoicyアプリでフォローしてください。


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