言葉をつかって、服を脱がないこと
文章にも、「人の気を引くための露出」というものがある。
そして私自身、ライターになって間もない頃は、服を脱ぐような文章ばかりを書いていた。その背景には、「読んでもらいたい」という欲求もあったし、「PV数を稼がなければ認めてもらえない」という焦りもあった。
普段は覗けない他人の心の奥、その柔らかいところまで踏み込める記事を作ることで、人の興味を集めていた。性的な話や、トラウマ、コンプレックス、家族や友達には言えない闇。
そういうトピックばかり取り上げて、自分の心を晒け出していた頃、私がしていたのは「書く努力」でも「読まれる努力」でもなく、「単なる露出」に等しいと、今では思う。
書きたくて書いていたのなら、本当に届けるために書いていたのなら別の話だけれど。
脱ぐことで集まった読者は、脱ぎ続けることを求める。
組織は、数字を取り続けることを求める。
そして書き手は、脱ぐことへの抵抗と美意識を失う。
ライティングを磨きたいのなら、なにも書かないよりは、それが何であれ日々書いたほうが良い……とはいえ、「脱ぎ癖」はライターの致命傷になり得る。結局、美意識を失ったライターが行き着く先は一流ではない。今となっては、痛いほどわかる。
誰かに「そんな文章を書くな」とか、「服を脱いでいるみたいだ」と言われたわけではないのだけれど、優秀な人たちの文章を読んでいるうちに思うようになった。これは「書く」ではない、と。
なんでもない日常の中から、小さな変化や美しさ、面白さを見つけ、自分の世界を自分の言葉として届ける。そういう文章で、多くの読者を楽しませる。当たり前かのように、力まず、ふわりとそれを成し遂げるのがプロの世界だ。
非日常的な出来事ありき、露出ありきでしか読者の目を引けないのなら、「書く」という力以前に、世界を「見る」力がまだ足りていないのだろう。
まだまだ、私は「見る」を鍛えなければいけない。ひとまずは、「脱ぐ」を辞められるようになってよかったけれど。
旅をしなければ面白いものが書けない人に、なりたくない。
ずっとこの仕事を辞める気がないから、ずっとライターでいたいから、そう思う。
自分の心のうちを書くときには、「脱いでない?」と、自分の美意識を静かに問うようにしている。
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