本を読むこと
店が暇な時間は大体noteを書いたり、本を読んだりしている。
でも最近は予定が詰まっていたりして、詰めたのは自分だけど、本を読もうと思わなかった。「毎日読める」環境じゃないとなんか気持ち悪くて。物語を「覗く」という感覚があって毎日読めないくせに悪戯に覗くのも気が引ける。
「新しい小説を読むときは新しい友人を作るときのように慎重に」
好きな言葉です。
やっと毎日読めそうだぞ、となったので、お客様が働いていた神保町の三省堂で購入した小説を読み始めた。
そういえばちょうど三省堂さんが「一旦しおりを挟みます」という最強のフレーズをもってして休業に入るタイミングだった。
だからなおさらその小説は大事にしていたのだった。
小さい頃、父が寝る前にいつも小説を読んでいた。
アガサクリスティとかそういうやつ。「一体何が面白いのだ」と思いながら見ていた。難しそうだし。
とはいえ、自分も小さい頃から読書は好きだった。ズッコケ三人組など、図書室にあるようなものは一通り読んだ。知らない世界や、ありもしない突飛な世界に自分を投影するのが好きだった。
小説、というものに興味を持ち出したのは伊坂幸太郎さんの「グラスホッパー」だった。怖くて、スリリングで、でも、上品で、どこか可笑しい。
その頃にはカフェに行くという習慣があったので「いいおもちゃを見つけた!」という感覚だった。その次に「オーデュボンの祈り」を読んで完全にハマりました。図書室でズッコケ三人組を読んでいた頃の自分が生き返った感じがしました。未来が見えるカカシはなぜ自分の死を防げなかったか?という帯が既に最高だった。そこからお財布と小説を持ってカフェに行く、というのが休みの日の過ごし方になりました。
そうこうしている内に本の置き場も家には無くなり、自分の店の棚に並べています。いろんな作家さんのものがありますが、やっぱり伊坂さんのだけはほぼコンプリート、という感じで揃えています。
いろんな想いもあるので「適当に」読むということができずない。
格好をつけていえば本と「向き合う覚悟」がないと読むことができない。体力も精神力も消耗するから。
これは映画などもそうかと思うけど、こちらが「吸い取っている分、何かを吸われている感覚」があるのです。
「新しい小説を読むときは新しい友人を作るときのように慎重に」
まさにこの言葉通り。
友人に向き合うのと同じこと。全身全霊。
でもきっと書き手はそんなことを望んでないのだろう、と想像する。
家で寝っ転がってお茶でも飲んで、読んでよ、くらいかもしれない。