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『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。( 幡野広志/ポプラ社)』を読んで、人生の残り時間を数え始めた。

もし自分が、「余命◯年」と宣告されたとしたら。
きっと絶望を覚えながらも、その「残り時間」は、「少しでも長くあってほしい、できる限り大切にしたい」と思うものかと、漠然と想像していた。
しかし、そんな風に思えるのはむしろ、とても幸福な状況なのだと思い知った。

次の二文に描写される、著者の闘病の日々は壮絶だ。

・当時のぼくはたとえ余命が3か月であっても、その3か月を我慢できる自信がなかった。今日にでも、明日にでも、散弾銃で胸を撃ち抜きたかった。

・僕が自殺を考えていた当時、自宅に所持していた散弾銃(狩猟用)が心の支えだった。いざとなったら、これで死ぬことができる。この苦しみに終止符を打つことができる。そう考えることで逆に、自殺を思いとどまった。

「余命」というものに対して、悔しさや心残りを感じられることは、実は幸福なことだったのだ。未熟な自分には、想像もできなかったことだ。

著者の幡野広志氏は、「多発性骨髄腫」という難治性のがんと診断され、余命3年の宣告を受けた。
本書では、その壮絶な闘病の日々や、家族との向き合い方、安楽死制度に関してなどが、詳細に綴られている。
その全てが息を呑むほどリアルで、読み進める手を止めることができなかった。


個人的に興味深かったのは、「家族」の定義だ。
たとえばNASAの例として、次のような描写が出てくる。

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・NASAの定義は明確だ。
①配偶者
②子ども
③子どもの配偶者
までが、「直系家族」なのだ。
父親も、母親も、兄弟も、特別室に入ることはできない。血が繋がっているはずの彼らは、みな「拡大家族」に分類されているのだ。

・同性婚を含め、自分で選んだパートナーこそが、家族の最小単位なのだ。
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例えば配偶者は(少なくとも日本では)、血がつながっていないという理由からか、「最も身近な他人」なんて言い方をしたりされる。

しかし、考えてみると当たり前のことなのだが、改めて気付かされた。
自分で選ぶことができるのは、配偶者だけなのだ。
親も子どもも、自分で選ぶことはできない。
だから、NASAの定義では配偶者が第一順位に来るのだそうだ。



また、私も2年前、父親をがんで亡くした経験がある。
それだけに、次の一節は自分への戒めとしても、今後も胸に刻んでおきたいと思った。

・「がんばって」と言われたがん患者は、みんなこう思っているはずだ。「悪いけど、あんたよりはがんばってるよ」。緩和ケアの看護師さんは、一度として「がんばって」とは言わなかった。

壮絶な痛みや苦しみに耐え続けている患者本人の立場に立ってみると、そう感じるのは当然だろう、と思った。
しかし、実際にはつい、「がんばって」という類の言葉をかけてしまっていないだろうか。そう振り返らずにはいられなかった。

結局、こういった場面でも重要なのは、「相手の立場に立つこと」なのだ。
我々はどうしても、「自分の視点」「自分の文脈」に囚われてしまう。
それを端的に表した次の一節が、強烈だった。

・「あの人に死んでほしくない」の正体は「自分が悲しみたくない」なのだ。


読み終えた後、スマホのアプリで、「人生の残り時間」のカウントダウンが出るように設定する自分がいた(仮に平均寿命で設定)。
自分の人生があとどれくらいなのかは誰にもわからないけれど、残りの日々を大切に生きていきたいと心から思いました(もちろん「家族」と一緒に!)。

出会えて良かった一冊でした。


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