見出し画像

ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」(第4楽章)


※ 過去の公演プログラムに掲載された楽曲解説です


ベートーヴェン:交響曲 第9番 Op.125《合唱》より 第4楽章

 地球規模の人類愛と差別のない兄弟愛を詠ったシラーの頌詩『歓喜に寄せて』は、シラーが入会していたフリーメイスン(モーツァルト、ハイドン、ゲーテらも会員である)ドレスデン支部の儀式の為に、1785年に書かれたとされている。

 当初「自由 Freiheit」とした言葉は、厳しい検閲を避けるために「歓喜 Freude」と書き改められ、シラーの友人によって威勢の良い曲もつけられ流行する。4年後のフランス革命の勢いも相まって、ドイツの学生達が〈ラ・マルセイエーズ〉のメロディーに乗せて高らかに歌っていた時期もあった。

 ボン大学の文学青年らと、当時はカントの哲学やシラー、ゲーテといった文学談義を盛んに交わしてた若きベートーヴェン。当然この頌詩も知っており、友人がシラー夫人に宛てた手紙で、ベートーヴェンが『歓喜に寄せて』を題材に作曲の構想を練っている旨を、既に伝えていた。《第9》初演は最晩年の1824年なので、実際に手がけたのはそれから30年以上も後のことになる。

 この頌詩には他にも多くの作曲家が曲を付けており、かのチャイコフスキーも音楽院の卒業試験で課題とされ、カンタータの大作に仕上げている。
 世で最も知られるベートーヴェン版〈歓喜の歌〉は、20世紀にはヨーロッパ全体を表す曲としてEUで採用され(加盟国の言語が多岐に渡ることから歌詞は公式に定められていない)、そしてフランス革命の200年後、ベルリンの壁崩壊の折には、バイエルン放送交響楽団を主体とした6ヵ国混合オーケストラをバーンスタインが指揮し、歌詞中の「歓喜」を、原詩の「自由」に戻して歌われた。
 同時期に起きたチェコのビロード革命でもノイマン指揮チェコ・フィルによる祝典演奏会で奏され、東欧革命のテーマ曲となる。《第9》及び〈歓喜の歌〉は自由や平和の象徴として今日もなお、世界中にかけがえのない感動をもたらし続けている。

 1813年末から翌年にかけて第7番、第8番の交響曲を相次いで発表してから10年間の空白を経て、第9番は1824年に発表され、プロイセン王に献呈された。ベートーヴェンが亡くなる3年前、54才のことである。

 それまでは2つの交響曲を対の作品として同時に、あるいは近い時期に発表するのがならわしであったベートーヴェンは当初、ロンドンの音楽協会からの2つの交響曲の作曲依頼に対し、通常の曲と、前2作の交響曲と平行して構想を練っていた合唱付きの両方を考えていたが、結局はロンドンの話はお流れとなり、ひとつの長大な《第9》が生まれゆく。

 当時ウィーンではロッシーニの音楽が大旋風を巻き起こしており、予定されていたシューベルトやベートーヴェンのオペラの上演に取って代わられるほどの人気であった。
「ウィーンの軽々しい風潮に合わないだろう」と、ベートーヴェンは《第9》初演をプロイセン王国の首都であったベルリンと定め、手配も進め始めていた。しかし彼の音楽を心から愛し、親しい友としても長年支援し続けてきた音楽愛好家の名士らが「オーストリアの名誉の為に」と、署名入りの嘆願書を連名でベートーヴェンに渡して説得、ウィーンでの初演が実現、大成功を収めることになる。

 第4楽章は「恐怖のファンファーレ」と呼ばれる雷鳴の一喝で始まり、いったん静まったところで、チェロとコントラバスの低弦が厳かに語り出す。これは後に人の声として初めて入ってくるバリトンの「おお、友よ! このような調べではない」と、いさめるレチタティーヴォそのもので、合いの手のような全合奏に続いて第1楽章の緊迫の主題が一瞬現れるが、すぐさま低弦のレチタティーヴォで否定される。
 続いて顔を出す第2楽章の弾むリズムも否。そして静かに奏でられる第3楽章の優美な主題も拒絶される。平穏や癒やしをもたらす天上の音楽ですら、いっときの儚いまやかしに過ぎないということか。
 ベートーヴェンの人生の集大成とも言える《第9》の、更にこの終楽章において、先立つ3つの楽章の各々の主題を回帰しては、ことごとく否定することで、「苦悩の人生を乗り越えて、喜びあふれた偉大な境地に達しゆく」というメッセージが、より強く伝わりゆく。


「無限の精神を持ちながらも、限りある存在の我々は、苦悩と喜びの両方を抱くべく生まれついているのです。苦悩を通じて喜びを勝ち得る姿勢こそが最善なのです」

 このように述べているベートーヴェンの究極の到達点ともいえる〈歓喜の主題〉は、チェロとコントラバスによって静かに始まり、崇高な空気の中、低音から少しずつ、ごく自然に楽器が加わり次第に高らかな大合奏へと向かってゆく。
 まずはオーケストラのみで続く音楽は、後に声楽が加わってからの流れと同様で、言葉で語られる前触れのような構成となっており、再び冒頭と同様の嵐の乱奏から、いよいよ人の声が入り、よりドラマティックに再現される。

「おお友よ!」の呼びかけから始まり、「もっと心地よいものを歌おうではないか。更に喜びに満ちあふれる調べを!」と語るバリトンのレチタティーヴォの部分はベートーヴェン自身による言葉で、続く〈歓喜の主題〉からが、シラーの頌詩からの抜粋である。

 朗々たる独唱に、重唱、華やかな大合唱と、歓喜の歌は劇的な高まりを見せ、打楽器が意気揚々と活躍するマーチ風から、厳かなコラール調、ソプラノとアルトにテノールとバリトンの二重フーガ、四重唱、大合唱と、音楽は最大限の盛り上がりを見せたかと思うと、いったんは落ち着き静寂で敬虔な世界を描きつつ、否応なしに益々高揚し、大いなる感動と共に全曲が締めくくられる。

 かつて切実なる信条告白として書いた『ハイリゲンシュタットの遺書』で、

「自分の中にあると感じている全てのものを出し切るまでは、この世を去ることなどできない」

と、己を奮い立たせ、絶望から抜け出し、次々と名曲が生み出される「傑作の森」へと突き進んでいったベートーヴェン。
 彼にとって、歌曲やピアノ曲は極めて個人的な内面告白といえようが、交響曲や宗教曲などの大規模作品は、「時空を超えた彼方の絶対的な存在」といった宗教的概念を音楽を通じて呼び起こし、人々に道徳心を高めるべく語りかけていく最適の表現手段であり、人生最大の目標であった。



解説;森川 由紀子

いいなと思ったら応援しよう!