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【読書記録】モテるまちづくり:まちづくりに疲れた人へ。 (まち飯叢書)
今回の読書記録シリーズは、私の友人であり、まちづくり活動において先輩にあたる谷亮治さんの著作の三冊を、今の私の立場から読み解こう、というものです。
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今回の『モテるまちづくり:まちづくりに疲れた人へ。 (まち飯叢書)』は、その一冊目に当たります。
以下続刊として、
『純粋でポップな限界のまちづくり: モテるまちづくり2 (まち飯叢書)』
『世界で一番親切なまちとあなたの参考文献-人見知りで世間知らずな俺がまちづくりを始めて20年が経ったんだが』
以上の二冊が続きます。いずれも著者のセンスを感じさせるタイトルです。
本記事を書く経緯と私について
今回扱う三冊の著者である谷さんについては後述するとして、今の私の立場とはどういったものかを著してみましょう。
今の私の立場とは、昨年一月に先代から家業の米づくり(兼業農家)を引継ぎ、現在は実家のある三重県と京都府の二拠点での生活を両立させようと奮闘している組織変容のファシリテーター、というものです。
昨年の今頃、父から米づくりを継ぐことを決めて以来、父の友人や地域の先輩方にご指導頂きながら、どうにか収穫まで行うことができました。
それまではあくまで外からやってきた人として、団体、企業、プロジェクトの現場に入らせていただき、どのような人が集まり、どのような課題があり、どのような未来を望んでらっしゃるのか…そういったことをヒアリングし、対話の場を設け、次のステップを見出すための機会をご一緒させていただいておりました。
ところが、あまりにも急だった昨年一月の引継ぎ以降、いわば事業承継の当事者として、また、米づくりの現場においては地域の人間関係の当事者として、降りかかってくる難問にこれまでの現場で培った知見をフル活用して取り組むこととなりました。(その経過は、以下のマガジンにまとめました)
そんなこんなで2020年12月。
まちづくり現場における先輩であり、友人(と私は思っている)である谷さんがご自身の三冊目の本『世界で一番親切なまちとあなたの参考文献-人見知りで世間知らずな俺がまちづくりを始めて20年が経ったんだが』を自費出版されるという報せを受け、年明け以降に読み込み、今に至ります。(最新刊の第二次受付に関しては、以下のイベントからどうぞ↓)
一年間、ローカルにどっぷり浸かった私にとって、新冊もさることながらそれまでの二冊も目から鱗の発見が次々溢れてきたため、「よし!これを機に谷さんの三冊の読書記録をまとめよう!」と思い立ったわけです。
(本来であれば、三冊まるごとまとめたnoteを書こうとしていたのですが、文字数が10000文字を超えたあたりから「まず、一冊ごとのまとめを出していこう」と方針を切り替えることになりました。)
以上、極めて個人的な興味関心から今回のnoteは書き始められたわけですが、私自身の今後のための勉強記録として、また、著者の願いと併せて表現すれば「この学びが公共財となること」を願い、以下、書き進めていきたいと思います。
著者・谷亮治さんについて
今回の三冊の著者である谷亮治さんは、1980年大阪生まれ。大学時代から住民参加のまちづくりの実践と研究に携わり始め、その後大学院へ。大学院での研究の傍らまちづくりNPO法人の事務局に務めて現場経験を積まれ、現在は社会学博士として、京都市まちづくりアドバイザーとして、あるいは専門社会調査士として、その他大学講師や作家としても活動されています。
まちづくりと聞いて思い浮かぶイメージに、「コミュ力が高くて、人間が好きで、お祭りやイベント大好き!ワッショイ!な、イケイケな人が集ってワイワイやっている取り組み」というのもあるかもしれませんが、まちづくりに出会った当初の谷青年はいわゆる「ぼっち」タイプだったそうです。
(イケイケでキラキラしたまちづくりのイメージは、studio-Lの山崎亮さんが現れたり、『ソーシャル〇〇』『シェア〇〇』といった用語がトレンドとして頻出するようになってからのイメージとも言えるのかもしれません。)
そんな「ぼっち」タイプの谷青年は、大学のゼミ活動でプレ山崎亮時代のまちづくり活動に関わり始めます。
まちづくりとは、自分だけではなくまちという広い社会のために、金銭的に儲かることが約束されたわけでもなく、称賛されるかもわからない活動です。それにも関わらず、多くの場合ボランティアとして取り組まれている地域の諸先輩方の姿に感動したことが、その後の進路のきっかけでもあったようで、その後も谷青年は現場に携わり続け、そこで得た学びを書籍や論文にまとめることで、今に繋がっているとのことです。
私が彼と初めて出会ったのは、当時住んでいた大阪から京都へ引越しする前後くらいの頃です。彼は『モテるまちづくり』を書き上げたばかりで、白衣姿にゆるいパーマ、眼鏡、眼鏡の奥の笑っていない目に、頬に張り付いた笑顔という風貌で、マッドサイエンティストを名乗りながら連続講座をされていました。元ぼっち青年は、サブカル系まちづくりお兄さんに進化していたようです。
変な人だなぁ……と素直に受け取りつつ、その連続講座の教本になっていた『モテるまちづくり』が本当に面白かった。これは面白い!と書いた私の投稿等をきっかけに、「私も読んでみたい!」「どこに問い合わせれば良い?」といった問い合わせがやってきて、本の紹介・仲介等をしたのも良い思い出です。
その後、私は本格的に京都に移り住み、NPO法人場とつながりラボhome's viのメンバーとして京都市伏見区のまちづくり事業に関わることになるのですが、そこでまたご縁があり、京都市まちづくりアドバイザーの谷亮治さんと再会したのでした。
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現在でも、彼が書籍やnoteで時折放り込むまどマギネタ、ジョジョネタ、その他サブカルネタにクスリとさせられつつ、勉強させてもらい、なんだかんだ仕事以外の場でも付かず離れずで関係が続いている、ありがたいパイセン的な存在です。
本書のきっかけとなった問い
2014年12月12日に出版された『モテるまちづくり: まちづくりに疲れた人へ。 (まち飯叢書)』は、著者・谷さんがまちづくり仲間と作った研究会「まち飯」での問いに端を発します。
『まちづくりで飯を食うにはどうしたらいいか?』
『まちづくりで飯を食うとはどういうことか?』
『そもそも「まちづくり」とは何か?』
以上3つの問いから、本書は始まりました。
以降、「まちづくり」というものを巡っての思考実験(著者本人はSF:サイエンスフィクションと嘯いていましたが)が始まります。
「まちづくり」を「公共財」という語を用いて再定義
著者はまず、「まちづくり」の再定義を目論みます。具体体には、経済学由来の用語である「公共財」という語を準備し、
「まちづくり」とは、「まちの人なら誰でもアクセスできる公共財を創り、育て、しまう営み」
という定義を提案しています。
「公共財」とは、「非競合性あるいは非排除性の少なくとも一方を有する財」と定義されるものです。
非競合性とは、ざっくり「資源の奪い合いにならない度合い」を言い、
非排除性とは、ざっくり「利用者を選ばない度合い」を意味します。
「奪い合いにもならず、利用したい人であれば誰もが使える財産」……そういった特徴を備えたものが、「公共財」ですね。
さて、これでなんだか掴み所のない「まちづくり」も再定義できたし、めでたし、めでたし、とはなりません。
上記の「まちづくり」の定義から発生する独自の課題、「オルソン問題」に対処しなくてはなりません。
この「オルソン問題」とは、どういったものでしょうか?
まちづくりの課題「オルソン問題」と「フリーライダー」
非競合性や非排除性を備えた財は、たとえ必要な料金を払わない人でも、何の活動に貢献をしていない人でも、その財を利用できることになります。
つまり公共財を創り、維持している人がいる一方で、タダ乗りする人=フリーライダーが現れてしまうのです。
そうなると「自分たちの頑張りが、タダ乗りされちゃうのはなぁ……」と、損を感じてしまい、結果、作ればみんなが幸せになれるはずの財産を誰も作れなくなる。
このような問題が、「オルソン問題」と呼ばれます。アメリカの経済学者マンサー・オルソンにちなんで名付けられたそうです。
さぁ、大変。
「まちづくり=まちの人なら誰でもアクセスできる公共財を創り、育て、しまう営み」を定義し直したら、「オルソン問題」を解決する必要が出てきました。
ここで著者が準備するもう一つのキーワードが、「コミュニティ」です。
「コミュニティ」により『オルソン問題』を克服する!
日本において「コミュニティ」どのような意図・期待を持って活用されてきたかも踏まえつつ、著者は「コミュニティ」を、
「資源の最適組み合わせによって価値を産み出す機能」
という立場を取って論じています。
共同体や、繋がり、といった集団としてではなく、機能として捉えているのですね。実態を捉えづらい「コミュニティ」を機能として捉えることで、「高い/低い」「強い/弱い」という判断をしやすくする捉え方かもしれません。
ここで言う資源とは、人、金、モノ、機会、知識、技術、立場や役職といった、あらゆるものを指します。
価値とは、コミュニティがもたらす公共財によって各個人の生活が豊かになることを指します。
まちづくりにおいて、コミュニティが有効に機能するためには公共財が必要であり、コミュニティが強化されることで公共財を産み出すという価値を創造できる……コミュニティと公共財は一体のシステムとして捉えることができます。
また、このように機能としての「コミュニティ」をまちづくりを理解する上で用意すると、「オルソン問題」とは、最適組み合わせが見出されていないが故に現れる現象として捉えることもできそうです。
個人の問題ではなく、フリーライダーを生み出す土壌を作ってしまっているコミュニティの機能の弱さ、という現象ですね。
逆に、まちづくりに取り組む一人ひとりの持つ資源が、誰かのニーズと組み合わさり、幸せにする・幸せにされる関係が豊かな、コミュニティの力の強い集団においては、「オルソン問題」は克服されるという希望を見出すことができるのです。
以上、「まちづくり」を捉え直すために、「公共財」と「コミュニティ」というキーワードが抜擢され、
「まちづくり」とはまちの範囲で「公共財」と、それを形成、維持できる「コミュニティ」を育てることであり、
「公共財」と「コミュニティ」が一体のシステムとしてうまく機能しているときに、「オルソン問題」を克服できる
と整理されました。
一見、ここまでで綺麗にまとまっているようにも思えますが、「オルソン問題」についてさらに深掘りすることができます。以降、見ていきましょう。
「オルソン問題」の深堀り:まちづくりに伴う呪いと怨嗟
「オルソン問題」について振り返ると、タダ乗りする人=フリーライダーの発生によって損を感じた人が、結果的に活動への参加に消極的になってしまう、というものでした。
つまり、「オルソン問題」が発生するということは、まちづくりに参加している人が「損をしたくないから」、もっと言えば「まちづくり活動への参加が不十分なことに納得できていない・不満である」という理由で活動に消極的になっていることになります。
その背景には地域社会の「全体主義性」「全員参加」「包括性」「同質性」「閉鎖性」といったものが暗黙の前提となっているものの、現在の産業構造、地域社会が流動化した状況では、その前提条件に限界が訪れていることもまた、指摘されているそうです。
「まちづくりは全員参加すべき」
という論調があったとして、それは容易に、
「みんなのための活動に参加しているのだから、他の連中も自分たちと同じように損を被るべき」
という呪い・怨嗟に変わってしまいます。
この、呪い・怨嗟を超えていくための最後のピースとして登場するのが、本書の最大のテーマである「モテ」であり、「モテるまちづくり」理論です。
満を辞して登場!「モテ」とは?「モテるまちづくり」とは?
では、「モテる」とはどういう状態を指すのでしょうか?
「複数の異性などから行為を受けて、チヤホヤされること」?
(本書の冒頭で著者は断っていますが、この本を読み進めることで性的にモテることはありません。そのための処方箋では、ないのです)
本書では宮台真司が述べた
「他人を幸せにできる人はモテる」
をもう少し分解して説明しています。
例えばAさんがBさんを幸せにするとする。まず、Bさんのニーズがある。そこにAさんの持っている資源が組み合わさる。もしくはAさんがどこからか資源を調達してくる。するとBさんのニーズが満たされて、幸せになる。AさんはBさんに、次もお願いしたいと期待される。なんならBさんは、CさんやDさんに、Aさんってこういうふうに期待に応えてくれるのよ、と伝えるかもしれない。するとCさんやDさんもAさんに、自分のニーズを満たして幸せにしてくれるかもしれないという淡い期待を持つようになる。そしてAさんは更にその期待に応えていく。こういうのが積み重なって生じるのが「モテる」という状態だと思われる。
このように整理すると、「非モテ」とは「資源(人、金、モノ、機会、知識、技術、立場や役職といった、あらゆるもの)の貧困」であり、「モテ」とは、「他人を幸福にすることで自分に起こる諸現象」と言えそうです。
また、前述のコミュニティの機能が高い集団においては人々はモテていると言えるのです。
この、「モテ」の観点から「オルソン問題」とフリーライダーを見返してみると、「自分のため」であれ「他人のため」であれ「まちのため」であれ、活動をしている当人が「他人を幸福にすることで自分に起こる諸現象」を享受できていないのであれば、それは同様に「モテていない」のであり、人類はもっとモテるべきだ!とするのが著者の主張です。
ちなみに、モテるためのコツは以下の四点が考えられるそうです。
第一に、「自分のため」に、自分で始めること
第二に、その結果生み出された価値が、他人にも利用可能であること
第三に、そこで生み出された価値が、他人のニーズにも合致するものであること
第四に、受益者が対価を支払うチャンネルがあること
この四点が、モテ循環を作っていくためには重要なようです。
まちづくりの「問題」からみる「願い方」「祈り方」
以上、著者が「まちづくり」を捉え直そうとした探求の末に、「モテ」という人間関係の営みの元型のようなものが現れてきたわけですが、133ページ以下の「コラム2 正しい所作で願うこと」にて、更に個人の内面に踏み込んだテーマが語られています。
そもそも、「問題」とは何でしょうか?
著者は「そうあってほしいのに、そうなっていない状態」を「問題」と定義しています。
地域について、あるいはその他「問題」とするテーマについて、人はどうなることを願って「問題」だと考えるのでしょうか?
この「問題」の裏にある願望っていうのは、けっこうわがままで、自分勝手で、みにくいものだったりする。そのためだろうか、人は願望を、願望として語らず、「問題」として一回デコレートして語る。時に「社会的な意義」みたいなきれいなリボンまで結んで、美しく偽装してしまう。
「こうであってほしい」という「願い」を、道理にかなうように「正しい所作で語ること」は、案外簡単ではないんじゃないかと思う。ここでいう所作とは、あるマニュアルがあって、それに合うか合わないか、で正しさを判定する、という感じではない。上で書いたような「自分勝手で不道理な欲望」に崩れず、「本当に世のため人のため自分のためになる願い」を紡げる型、みたいなイメージだ。
いわば問いの立て方とも言えるかもしれませんが、このような形で「願い方」「祈り方」という人のあり方にまでを射程に捉えた上で、「モテるまちづくり理論」通称「モテまち理論」が展開されたのでした。
終わりに
本書が出版されたのが、2014年。実に7年前になることに、何より衝撃を隠せませんでした。
数年ぶりに読み返してみたのですが、地元で行われている米づくりを「モテるまちづくり」の観点から見ると、やや将来が不透明な状況に置かれているように思えます。
超直近のところで言うと、担い手の高齢化と減少、それに伴う環境保全のギリギリ具合、経験・知識の喪失……そういったことも緩やかに進んでいるように見受けられます。
そう考えてみると、各戸別だけではなく、集落全体としてみたときに、果たして「コミュニティ」は最適な形で組み合わせを作れているか?
地域の諸先輩方の知識・経験を各戸内で完結する「私的財」としてではなく、「公共財」として捉えられているか?
集落を閉じきらず、外からの風を呼び込める余白や工夫はあるか?
などなど、今、改めて読み返すことで浮かんでくる問いもありました。
元々、私が京都に引っ越す前後に出会い、京都と言う「一言さんお断りコミュニティ」(偏見)にどう入っていこうか思案していたときに「これだ!」と手にした一冊の、違った側面を引き出すことができたように思います。
さぁ、また続編のまとめにも取り掛かっていこう!
さらなる探求のための関連リンク
タニリョウジ|note
純粋でポップな限界のまちづくり: モテるまちづくり2 (まち飯叢書)
世界で一番親切なまちとあなたの参考文献 (まち飯叢書)
二村ヒトシ『すべてはモテるためである』
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![大森 雄貴 / Yuki Omori](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106531099/profile_9cd43e4ceaef869c6a35bbb52b5358ee.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)