螺旋の未来
「人間は、発展することに疲れたのかもしれないよ。」私の夢の中の彼はそう言った。
夢が持ち主の潜在意識なら、彼は私なのかもしれない。そして彼は、絶望していない。
渇いたある夜の、短い一幕。
未来へ、行きたいと思った。
せめて終わりを、知りたいと思ったのだ。
この非日常の行き着く先を。
寒い寒い、冬の夜だ。
オフィスビルの乱立するエリアを少し外れた、小高い丘の上のこの喫茶店で、ホットコーヒーを飲みながら1日を振り返り思案に浸る、それがぼくの日常だった。
大きな一枚板の、あたたかみのあるテーブルと、その横でぱちぱちしゅんしゅんと音を立てる大きな薪ストーブ。そんな心から温まる空間で、ぼくは暮れゆく日を思っていた。
小さな小さなカケラが世界を変えてしまった。
収まることを知らず、瞬く間に世界に広まった非日常は、今や日常になりつつある。
外でも店でもマスクを外せないし、隣の客にほんの少し、喋りかけることもできない。ちいさな長方形のアクリル板が、ぼくたちを隔てる。向こう側が見えていないわけではないのに、そこにぼくは存在できないのだ。
それでも、ぼくの愛している些細な日常は、僕の手から滑り落ちる寸前で、ほんの指の先に引っかかって止まった。佇まいを変えながら、まだちゃんとぼくの隣にある。
心底ホッとした。そう考えない人間からしたら必要のない嗜好であるこの時間。しかし、ぼくにとっては毎日を生きていくのに必要な一時間だからだ。
止まったような時間の中を、季節だけが移っていく。毎日テレビが垂れ流す情報は、意識の上澄みをすべって、降りてはこない。
何もかもが非常にアンバランスな形で、天秤の上に乗り合っている。何かがもう少し、ズレるだけで、ほんのちょっとの重みが加わるだけで、崩れて落ちるかもしれない微妙で不安定な均衡だ。
ジェンガみたい。いつだってぼくのターン。生きていかねばならない。
本当はそっとしておきたい、そっとしておいて欲しい。そんな気持ちを堪えつつ、今にも崩れそうな塔から、ブロックを抜かねばならない。
ほんの少し、綻びを見せた自分の世界が、静かに静かに、でも確実に、その穴を広げていく。
当たり前に回っていた歯車が、軋み出した。
その音が、聴こえてしまった。
その音を、ぼくは頭から追い出すことがどうしてもできないのだ。
そんな毎日の中で、囁かれ始めたちいさな噂。
『この町で8番目に高いビルの屋上から飛び降りると、自分の行きたい時間に行くことができる。』
そのビルがどこなのか、滞在できる時間はどのくらいなのか、帰ってこられるのか。詳しい事は何一つ語られない。ただ、その噂だけが、まことしやかに疲れた町を歩き回った。
普段、そんな眉唾ものを信じるほど、現実に飽きてはいない。
ただ、今回だけは違った。
その噂を聞いた日、ぼくはそれをなんとなく手帳に書きつけていた。この喫茶店への滞在でいつも見返すお気に入りの手帳だ。
喫茶店に通うたび、その一言のメモは存在感と、ある種の憧れを増していった。そして、気づけばその『8番目のビル』を探していたのだった。ビル、とわざわざ指定するからには鉄塔などの非居住建造物は除くのだろう。オフィスビルとマンションに絞り、その建物を見つけた。
もちろん、その噂が正しいのかどうか、ぼくは知らない。
経験者の話はひとつもない。
デマと思われる経験談すら、ひとつも。
このSNSの時代において、その状況は神秘性を感じさせ、このおとぎ話に一層ぼくを引き込んだ。
そして、ぼくはその場所に立った。
全てが夢で終わらぬよう、コートのポケットに、「2020年○月○日、『8番目のビル』から飛んだ」と記したメモを突っ込む。肩から下げた鞄には、件の手帳だけを入れていた。
この事態の収拾する先を、分かっていれば踏ん張れると、そう考えたのだ。
終わりがないような気持ちになるから、この毎日に疲れている。
どのような形であれ、終着点さえ分かっていれば、ズレた歯車はいずれまた回るのだと、信じることもできるような気がしたのだ。
もちろん、そうはならないかもしれない。かもしれないどころか、ならない可能性の方が圧倒的、なのは分かっていた。
それでも良いと思っている。
この話が本当ならば、ぼくは終わりを知ることができる。
本当でないならば、終わりを知らぬままぼくが終わる。
どちらにせよ、このどうしようもなく停滞したこの状況を、抜け出すことができる。それはぼくにとって安寧だった。負けの目のない賭け。つまりはそういうことだ。
信じよう、そう思った。
唐突に、身体を痛みが走る。
いや、痛みではない、これは冷たさだ。
ぼくは厚めに雪の積もった植え込みに倒れ込んでいた。膝をついて、黒く汚れた雪を払い落とす。頭から順繰りに触れ、黒の汚れの中に赤の汚れを探した。どうやら、怪我はしていないようだ。大きな痛みもない。
震える手で、ポケットを探った。カサリと指に乾いた音が当たり、おそるおそるそれを引っ張り出す。ある。見覚えしかない自分の字。
濡れてしまう前に、と立ち上がり、透明度と重みを増していく雪を振り落とす。
空を見上げる。冬の時期の時間感覚では、この明るさなら4時半といったところか。
遅くはないはずの時間だが、町は深夜のようにしんと静かだった。明るいだけで、そこに熱はなかった。
ぼくはどこへとなく歩き出した。ほんの少しの登り坂。薄暗くなってくると、人の気配のない街中でも、ぽつり、ぽつりと明かりが灯り出した。でもなんだか違和感のある光の色なのだ。白色ではなくオレンジ色で、ゆらゆらと揺らめいて、それはまるで…。
ぼくは、なんとなくだが、それらの家の住人に出遭ってはいけない、そんな気がした。そして、ハッとする。今、ここが本当に未来なのか、未来だとしたらいつ頃なのか。まだ自分のいる場所がわかっていないことに気づいたのだ。何か、何か目印はないか。
そういえば、と、日付け機能付きの腕時計に目をやる。アナログな文字盤の、秒針を含めた3本の針は、不規則にぐるぐると回転している。日付の表示は虹色に点滅を繰り返し、文字は読めない。点かないネオンサイン、読み取れない看板の文字、真っ黒く薄汚れた暖簾やノボリ。
およそ、太陽以外の時を知る手立てがここにはなかった。
あるものが目に入る。おそらく元は防火設備の入っていたであろう扉に、乱雑に突っ込まれた紙の束。よく見るとその辺り一体に似たような紙屑やビニール袋が散乱している。臭いもする。ここはゴミ捨て場なのだろう。そこからはみ出す灰色はぼくも見たことのあるものだった。
掴んで引っ張り出すと、やはり新聞紙だ。記事の内容はとりあえず、ぼくは日付を探す。昨日今日のものではなかろうが、それほど昔のものでもないだろう。そこに書かれた元号は、知らない2文字だった。西暦は不記載。その元号が、ぼくのいた令和のいくつ先なのかまでは、知る事はできなかった。
「場所は…ここは…東京、で、いいんだよな…。」
ひとりごとが漏れる。町並み自体に覚えはないが、遠くを見渡した時の象徴的な建物には、ぼくの記憶と一致するものがいくつかあった。
「あんた、今、トウキョウって言ったか。」
突然声をかけられてゾワッと鳥肌が立つ。
「あんた、今ここを、トウキョウって呼んだのか。」
静かな声が繰り返す。意を決して振り返ると、ゴミの山の中にゴミをさらに投げ込む男がいた。気づかなかった。
「はい。…あの、違うんでしょうか?」努めて冷静に、敬意も持って、会話をする。
「いや…俺も聞いたことはある。ガキの頃、俺のひいじいさんが、ここが昔そう呼ばれていたってな。今聞いて思い出したよ。そんな古語を使う奴が今もいるのかってびっくりしたんだ。思わず声かけちまった。驚かせてすまない。」
その人に、西暦を聞くこともできたはずだ。何が起こってこの町がこうなったのか。今の、この町の名前は。しかし、先ほどのやり取りで、なんとなく納得してしまったのだ。聞かなくても良いことのように思った。だから、何も聞かなかった。
「あんた、見たとここの辺の人じゃ無いだろ。この辺は誰も住んでないことになってる場所だから、離れた方がいいぜ。もう少し東へ行けば、人もいるし家もある。」
そういう男の忠告を受けて、東に進路を変えて進んだ。
はたして、なぜその店に目が留まったのだろう。今、ぼくは見知らぬ町の喫茶店にいる。
時間としては、仕事帰りに一服していたのと同じくらいの時間だ。温かみのある木のテーブルの席へと腰を下ろし、毎日そうしてきたように、ホットコーヒーを注文した。
コリコリ、コリコリ、とコーヒー豆が歌い出す。あぁ、この店も、注文が入ってから豆を挽くスタイルなのだな。
ふーーっと息をつき、テーブルに手を投げ出す。そのテーブルは大きな一枚板でできていて、水流のように木理が流れ、不規則に丸の重なった節が所々にある。てもちぶさたに、その流れを指で辿った。
気がつくとコリコリという音は止んでいた。目の前で店主がドリッパーにペーパーフィルターを当て、少しだけお湯を落とす。ふわあっと粉が膨らむ。その香りが広がってきて鼻腔をくすぐる。その瞬間、なぜかその光景、いや、香りなのだろうか、とにかく、その場に強烈な既視感を感じて身体を起こした。
まさか、まさか。
いましがた撫でていた木理をもう一度見る。
飴色をまして年月を感じさせる風合いの変化こそあるが、この流れ。この節。ここに、ちょうどいいからとコーヒーカップを合わせていつも置いていた。厚みも、大きさも、雰囲気も、考えれば考えるほどこのテーブルは、ぼくが毎日通っているあの店の、それだった。
「ここ…ここって!!」思わず声を上げる。
ちょうど、コーヒーが入ったところで、カップとミルク、シュガーを乗せた銀色のお盆を持ってカウンターから出てきた店主と目が合う。
「あれ?お客さん、来てくださったことが?」
返事に一瞬困る。自分はここの人たちからしたら過去の人間だ。前に来たことがあったと言っても、それは遠い過去のはずで、この人は愚か父母の世代ですら、ないのは明らかだった。
「いえ、まぁ、、随分前に、お邪魔しました。今日のような、冬の夜に。」そう言うと店主は、そうですか、と目を細めた。
店内の設備で見覚えのない、新型らしいストーブに目を泳がせていると、店主はぼくから何かを感じたのか話し始めた。
「来年から、薪ストーブを導入することになりましてね。今のコイツは、より多くの人が一度に入れるように、楽しんでもらえるようにと用意した省スペースな小型暖房ですが…。感染症のために、人同士の距離を取らにゃいけなくなったでしょ。」
そのとき口にした感染症の名は、ぼくの知らぬものだった。
「それに燃料の問題もあって、今の常用エネルギーは一般家庭や小さな事業所では使えなくなるんですよ。気候変動で住める場所も減ってきてる。」
まぁ、住む人も減ってきてるので、それは大した問題でもないんですけどね。と店主は笑った。
「日本には四季があると、そんなことも昔は言われていましたなぁ。今では雨季と乾季があるだけ。雨が降ったら海ができる。特に、埋め立てたような湾岸の都市はひとたまりもありませんでした。
それに…あの日以降、電子機構の組み込まれた精密機械は、使えなくなってしまったから、都市というものが持続できなくなってしまった。
それぞれが、それぞれの食べるものくらいは生産、あるいは採取できる場所で生きる必要に迫られましたしね。適応できない者も当然いた。公共に掬われない者もいた。零れ落ちるしかなかった。今だってそうです。」
その世界では、知らぬものなどいない、常識なのだろう。9年前の3月11日のように、人々の心と日常をえぐった1日のように。
「あの日」に触れることなく、店主の話は続く。
ぼくだけが、「その日」を知らない。
「持続できなくなったとは言っても、その機構はいまだに残っている。まぁ、海に沈んでしまった地域もあるが…。今の行政は手一杯で、その維持も解体もできんでしょ。それなのに、5年もすれば、この国中の道路だの水道だのの多くインフラが最終耐用年数を超えてくる。
本当に目に見える将来、手の届く未来、わしらは山のような問題の、手をつけなければいけない段階に直面することになるんですね。ただそれを、解決する手立ては、少なくともわしには、見えない。」
ぼくらの時代からあった問題たちは、もっと差し迫り膨らんだ危機として、彼らのそばにまだ寄り添っていた。
「多くの人たちもそうなんでしょう。そういうことなら、失われていくばかりなら、懐かしいレトロな機器に回帰しようって流れが最近強くてね。エネルギーも、原始的な過去のものに頼ることができるし。」
ぼくは何も言えずにいる。きゅっ、きゅっ、とポットをふきんで磨く音。彼はぼくを見ていなかったが、かといって手元も見ていないようだった。
「発展することに、人間は疲れたのかもしれない。多少不便になったとしても、記憶の中にある、自分の知っている、確かに存在していたものを、拠り所にしたいのさ。ないかもしれない未来ではなくね。」
店主はふーっとため息をついて、コトンとポットを棚にしまった。その表情から読み取れるのは、ぼくにもどこか覚えのある、しかし、名前を知らない感情であった。しかしそれは少なくとも絶望ではない、ぼくはそう思った。
「だからわしもね、大じいさんの代まで使ってた大きな薪ストーブを、ここに、据えようと思ってるんですよ。どーーーんとね。」
そう言って店主が仰ぎ見た歴代店主の写真。そのうちの一つの柔和な表情が、コトリとコーヒーカップをテーブルに置く音とともに、僕の記憶に去来する。
ぼくが来た未来は、ぼくがいた過去、あるいは、ぼくが知る過去に戻ろうとしているのだ。
世界は回り、巡っているのかもしれない。
同じ場所を、繰り返し、繰り返し。
その足下が、なくなるまで。
コーヒーを啜る音と食器の触れ合う音、そして燃料の燃えるしゅんしゅんという音だけが、僕の頭の中に響いていた。
了